[687] 2010年03月27日(土)
「忌引帰省」
※今回はかなり冗長な文章だが、記録という側面からそのまま掲載した。
●祖父他界
2010年2月16日火曜日、職場で会議中に連絡が入った。
九州実家の祖父が、息を引き取ったという。死亡時刻9時55分、享年93歳だった。
会議の場にいた上司が「どうした?」と聞いてくれたために話が早く、その日は午後休暇、そして翌日から忌引休暇が取れることとなった。
続柄としては2親等なので忌引休暇は多少気が引けたが、九州田舎の高齢者ばかりの実家ゆえ、クルマを運転出来る者もおらず、我輩が現地でレンタカーを運転し動き回るしか無かろう。
祖父はこの半年ほど前に危篤状態となったのだが、奇跡的に回復し、介護施設に入所してリハビリに励んでいた。
ところが今年になって身体が弱ってきたようで寝たきりの状態となった。その様子を写真で見るとかなり痩せ細っているのが分かった。
実家九州のことゆえ、千葉県にいる我輩は母親からの電話やメールでしか様子が分からないのが歯痒いが、これまで戦争を生き延び、30年くらい前に大腸ガンを克服した祖父であるからと、その生命力の強さを信じ、また復活するだろうと思っていた。
しかし次第に言葉も不明瞭になり、耳を近付けないと聞き取れないようになったという。
また、ベッドに寝かせているにも関わらず、「頭が後ろに落ちる気がして怖い」と介護職員に訴えたため、ベッド上半身を少し起こしてやったそうだ。平衡感覚がおかしくなったのだろうか?
2月15日、祖父は「明日、帰れないなら自分は自殺する」と言い出した。そして、介護職員らに「自分は明日帰ることになりました。お世話になりました。」と言ったらしい。
食事もほとんど食べなくなり、この日我輩の母親がゼリー状のものを2さじほど食べさせたものの「もういらない」とそれ以上は食べなかったとのこと。
そして2月16日の朝、介護職員が祖父に食事を与えていたところ、フッと意識が無くなり心肺停止の危篤状態に陥った。
病院に運ばれ心臓マッサージが施されたものの、そのまま意識が戻らぬまま息を引き取った。
親族はもとより医者にさえ「僕もこのような大往生をしたいものだなあ」と言わせたほどの、祖父の臨終だった。
さて今回、我輩は新幹線のぞみで北九州の小倉に向かい、駅近くでレンタカーを借りることにした。その時点で日程は読めていないが、とりあえず4日間借りることにしようと思う。
ところがインターネット上でレンタカーを予約しようと思ったのだが、4日間連続で借りようとすると空車が全く無い。あったとしても借り賃の高い高級車。
ならば、自分のクルマを運転して千葉から北九州まで走り通すか?
もしそうするのであれば、下着の着替えや喪服、そして撮影機材などをクルマに適当に積み込めば済むのだ。新幹線ならばそうもいかず、荷物は手持ちの範囲となるよう厳選せねばならぬ。
それに、祖父は生前、我輩のクルマを見てみたいと言っていた(写真では見せたが)。せめて骨だけでも乗せてやりたいとも考えた。
通夜は翌日の18時の予定。まだ24時間以上ある。運転さえ頑張れば間に合わないこともない。しかし復路もあるのだから、大変な旅になるのは容易に想像出来る。
大阪からフェリーで行くことも考えたが、さすがにその日のフェリー乗船時間には間に合うわけがない。
そうであればせめて、帰りだけはフェリーとするか?・・・いや、それでも大阪から8時間運転し続けねばならぬ。
結局、再度インターネットでレンタカーを探してみると、喫煙車を選択するならばトヨタレンタリースにて空車が1台あることが判明。1,300ccエンジンのコンパクトカー「トヨタ・ラクティス」だった。
しばらく迷った末、今回、それを予約した。
そうなると、手荷物の問題が残る。
喪服や着替えなどと共にカメラもぜひ持って行きたい。機材選定をどうするか。
まず、メモカメラとしてのデジタルカメラは必要になるだろう。軽量な「SIGMA DP2」ならば一眼レフ画質なので良かろうと思ったが、どうしたことか充電器が見当たらぬ。部屋が散らかっているため、大掛かりな捜索をせねば見付かるまい。しかしとてもそんな時間が無い。
仕方無いので、今回は「Nikon D200」を持って行くことにした。もっとも、「SIGMA DP2」では撮影レスポンスの問題もあるので、葬儀の片手間に撮影するとなれば、多少大柄でもデジタル一眼レフカメラのほうがサッと撮影出来るという意味では面倒が無い。
それから、フィルムカメラも必要となる。記録するにはフィルムしか考えられない。もちろん、中判しか考えていない。
デジタルカメラの機種選定ではサッと撮影出来ることを重要視したため、中判カメラのほうもそういう意識が働いた。サッと撮るには、レンジファインダー形式の「New MAMIYA-6」ではなく、一眼レフ形式の「BRONICA SQ-Ai」しか無い。
(※中判カメラの場合、被写界深度が浅く、広角レンズであろうと厳密にピント合わせをせねばならない。そのため、画面の中心部しかピント合わせが出来ないレンジファインダーカメラでは速写性に劣るのだ。そこが被写界深度の深い35mmカメラとは特性が異なる。)
しかしそうは言っても、「BRONICA SQ-Ai」はレンズ込みではかなり重い。撮影が主体であれば着替えを減らしてでもカメラを優先させることも出来ようが、今回はそうもいかぬ。カバンに荷物を詰め込み過ぎてネクタイにシワでも入ると困る。
それに、やはり全てがマニュアル動作というのはツライ。また、光量が足りなければストロボはどうする?さらに荷物が増えるぞ・・・。
結局、66判を諦めて645判の「FUJI GA645Wi」を持って行くことにした。
これならば、AE&AF&AWのフルオートで撮影出来るし、ストロボも内蔵されている。露光精度については、ISO100のフィルムをISO80で使うとAEでもかなり当たるという実績があるので、カメラ任せでも不安は無い。
645判としたことについては、66判を制式フォーマットとしたのは豚児写真であるから、今回の撮影では規定には抵触しないという憲法解釈である(もし豚児が同行していたら66判でないとマズイ)。
<FUJI GA645Wi> |
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●帰省1日目(2月17日)
通夜当日の2月17日早朝、家を出発。
東京駅6時発の新幹線のぞみに乗った。自由席で往復割引を使うと、3万8千円くらいになる。
5時間後、小倉駅へ到着。
いつもの帰省では長距離運転やフェリー移動で日をまたぐのが普通であり、それに比べると5時間など「あっと言う間」という感覚になる。
列車から降りて小倉の空気を吸ったが、さっきまでは東京にいたのだ。なかなか自分が九州にいることが実感出来ない。
トヨタレンタリースは、駅から少し歩いたところにあった。
ちょっと庶民的印象のキュートな茶髪お姉さん店員に対応してもらい、ついでにカーナビゲーションの使い方など教わった。
費用は4日間で3万円弱。カード払いで手続きした。
慣れないクルマのため、最初はかなり難儀した。ちょっとアクセルを踏むとビックリするような急発進をするのだが、その後がなかなか加速しない。しかもブレーキがなかなか効かず、ガツンと踏み込んでちょうど良いくらいに思う。
<トヨタ・ラクティス> |
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葬儀社に到着すると、控え室では近しい親戚が集まっていつものようにベチャクチャおしゃべりに夢中で、その横には祖父が寝かされていた。その様子は祖父の生前の位置関係にも似ており全く違和感が無い。
祖父の顔にかけられていた白い面布を取ると、静かに眠ったような祖父の顔が現れた。
実を言うと、我輩は人の亡骸を見るのは今回が初めてだった。顔色は白く見えるが、普通に眠っているかのようだ。とても死んでいるとは思えぬ・・・。
しかも、葬儀社の職員がやってきて祖父のヒゲを剃ったり、口の中に綿を詰めたり、化粧を施して顔色を生前に近付けたりしていくうちに、ますます死んでいるとは思えなくなった。我輩の従兄弟の子供がその様子を見て「ジイちゃんまだ寝てるねぇ」と言っていた。確かにそう思うのも無理は無い。
こういうところでパシャパシャと写真を撮るのも不謹慎かとちょっと思ったが、こういうところでこそ写真を撮らねば写真の写真たる意味を失うと思い、「GA645Wi」でシャッターを何枚か切った。
人物主体の近接撮影では内蔵ストロボを使ったが、部屋全体を写すには内蔵ストロボでの照明は光量が足りぬから、蛍光灯色被りは承知の上でノーストロボで撮る。
ISOを80にセットした以外は、完全にカメラ任せとした。
ひとしきり撮影した後、我輩は母親に「GA645Wi」を渡し、祖父の横に座ったところを記念に撮ってもらった。これが祖父との最後のツーショット。
<祖父と最後のツーショット> |
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[FUJI GA645Wi/Kodak E100G] 2010/02/17 |
さすがに93歳の死では、我輩も含めて皆、「悲しい」というよりも「よくここまで長生きしたなぁ」という気持ちになる。
ただ我輩の母親は、「最期の瞬間に家族がいなかったのがかわいそう」だと言っていた。
ふと見ると、祖父の日記帳があった。他にも日記帳は何冊かあったそうだが、残念なことにそれらは処分したそうで、残っているのは一番最近の、この一冊とのこと。
中を読むと、「介護施設のお出かけに行った」とか「誰々が面会に来た」というふうにその日のことを簡潔に記録してあった。また、レシートなども貼ってあるページがあり、かなり几帳面なところが伺える。
さらに読み進めると、介護施設のAさんという女性職員が頻繁に出てくることに気付いた。
「買い物の日には美人(Aさん)が同乗。車イスの私をたすけて買い物し楽しい一日だった」
「リハビリ中、こんにちはと言って握手してきた美人あり。Aさんだったのか。」
「バスハイクで門司港の公園でAさんと並んで写真を写す。美人とは嬉しい。」
<祖父の日記帳> |
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「美人が好きやったみたいやねー、それくらいやけ九十三まで生きたんやろうねー。」と皆で笑った。
それにしても、Aさんというのはどんな人だろう? "美人"というキーワードに引っ張られて気になってしまう。
まあさすがに、介護施設に美人を尋ねて行くわけにもな・・・。
通夜は18時から始まり、我輩は受付を担当した。身内だけの葬儀なので、受付はそれほど大変ではない。
<祭壇> |
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[FUJI GA645Wi/Kodak E100G] 2010/02/17 |
通夜ではお坊さんが読経していたが、今までに聞いたことの無いような独特な読経だった。
ただ、風邪気味なのかしきりに激しい咳をしてその都度中断するのが少し残念。まあ、生きている人間だから仕方無い。
通夜の後、控え室に戻り、食事をした。
そして風呂に入った後、控え室に布団を運び込んで皆で雑魚寝した。
寝る前、叔父が「オレのイビキはうるさいぞ?出来るだけ離れたほうがいいぞ?」としきりに言っていたが、確かに、言うだけのことはある豪快なイビキだった・・・。
●帰省2日目(2月18日)
前日は、寝付いたのは午前1時頃だったと思う。そして、起床は5時だった。
気付くと我輩以外は起きていて小さな声でベチャクチャおしゃべりしていた。
この日は告別式、そして火葬であるから、少々忙しくなろう。
9時頃にお斎(おとき)の精進料理を食べ、その際、葬儀社のスタッフ数人が来て進行確認が行なわれた。
スタッフは、経験豊富そうな女性が3人、若い男性が1人だった。
叔母の「まあ、女性が多いんですねーっ。」という言葉から雑談が始まり、本木雅弘主演の葬式映画「おくりびと」に話題が移り、女性スタッフが若い男性スタッフを指して「ウチのモックンですー」と紹介して大ウケしていた。
この雰囲気、とても告別式の直前とは思えぬ・・・。
食後、身支度を整える。我輩は背広の下に「GA645Wi」を忍ばせておいた。
告別式は11時に始まった。我輩は前日の通夜と同様に受付をした。
この日は、昨日のお坊さんに加えてもう1人のお坊さんが来て、2人で読経をした。独特な読経と激しい咳は昨日と変わらず。
しかしながら、従兄弟の子供がいかにも悲しそうに泣き出したので、意外にも周囲がそれに感化され涙を誘った。まだ3〜4歳の子供なのに死の概念が理解出来るのか・・・?
読経が終わると棺桶のフタを開け、皆で祖父の周りに花を敷き詰めたり、祖父が好きだった梅酒を口元に垂らしたりした。
そう言えば、イラク北部のシャニダール洞窟から発見されたネアンデルタール人の埋葬跡に大量の花粉が見付かったことを思い出した。ネアンデルタール人も、死者には花を手向けたのかも知れない。そう思うと、死に対する気持ちというのは数十万年前も同じだったのだろうかと神妙な気持ちになった。
最後に我輩は、2枚の記念写真を祖父の顔の両横に置いておいた。去年の夏に祖父を囲んで皆で撮ったものと、祖父と豚児のツーショット写真である。ちなみに、祖父と豚児は誕生日が同じなので何かの縁を感ずる。
<花を敷き詰める> |
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[FUJI GA645Wi/Kodak E100G] 2010/02/18 |
12時過ぎ、告別式が終わって霊柩車とマイクロバスに乗って祖父の亡骸と共に火葬場まで行くことになった。
霊柩車というと社付きの黒塗りリムジンかと思っていたのだが、普通のワンボックスカーに棺桶積載装置を付けたものだった。リムジンのオプションは高価らしい。
我輩はマイクロバスのほうに乗ったのだが、田舎道特有の狭い道路を走るので対向車が来るとヒヤヒヤする。しかし我輩の心配をよそに、微妙に道幅が広がっているところを見付けてキレイにすれ違うのは見事。まるで対向車と事前に打ち合わせたかのよう。
そういえば、島根県松江市の一畑バスも、商店街の狭いクランクをフルサイズのバスが曲がるものだから看板などが目の前数十センチまで迫って最初は驚いたものだ。対向車が来たら相手はバックするしかない道である。
田舎の運転手は、運転がとても上手い。
途中、県営住宅がチラッと見えた。
そう言えば、我輩も幼少の頃はこういうところに住んでいたことがある(参考: 雑文542、 雑文539)。懐かしい風景だ。実際に住んでいた住宅はもう取り壊されているので見ることは出来ないのが残念だが。
さて火葬場に着くと、祖父と最後の別れをし、祖母が炉の点火スイッチを押した。
職員の案内によれば、全てが焼けるまで1時間半ほどかかるとのこと。
その間、ロビーで待ってお菓子などを食べていた。
我輩は、先日購入した録音可能なMP3プレーヤー(参考: 雑文684)を使ってさりげなく家族のおしゃべりを録音した。というのも、おしゃべりを聞いていると、我輩の知らなかった祖父に関係した情報が出てくるからである。
しばらくすると、職員が呼びに来た。
行ってみると、まだ熱気を帯びている台座の上に祖父の骨が横たわっていた。周囲に散らばっているコの字型の細い金具は、想像するに棺桶の金具か。
皆で手を合わせた後、箸を使って祖父の骨を骨壷に納めていく。
職員が「この骨はどこどこの部分です」と説明してくれるのだが、この骨が、つい先ほどまで眠るように横たわっていた祖父の骨とは・・・。
ちなみに、ノド仏の骨は別の入れ物に納められた。
肩や足の球間接は丈夫なためか、ほぼ完全に原型を留めている。
これが祖父の身体を支え、運動機能を実現していたのだ。そう思うと、何とも不思議な気持ちになる。
骨壷は小さいため、長い骨などはバリバリと砕いて入れるものらしい。また、骨は全てが入るわけではなく、半分くらいは余ってしまうもののようだ。
祖父の骨を収めた骨壷は我輩が受け取ったが、マイクロバスに乗った時にひざの上に乗せると、火葬の余熱が伝わって暖かく感じた。
葬儀社に戻ったのは15時頃。
控え室の祭壇に骨壷を置き、そこで改めてお坊さんの読経が始まった。今度の読経は、途中から拍子木をカンカン鳴らしていた。こういう宗派もあるのか。
我々親族はその後ろで正座しているのだが、祖母がだんだん横に傾いてきたので、叔母が少し支えるようにした。
祖母は高齢のため正座ではなくイスに座っており、足が痺れたわけではなかろうが・・・。
16時になって食事が用意された。
お斎(おとき)の精進料理は味気無かったが、今度の食事は食べ甲斐のあるもので美味かった。
食事タイムは、当然ながらおしゃべりタイムでもある。
祖母が開口一番に言った。
「あのお経、ヘタクソやったね〜!」
皆も笑いながらそれに同調した。
「拍子木のカンカン言うのがもう耳が痛かったっちゃね〜!」
言いたい放題であるが、我輩もそう思っていただけに自分だけじゃなかったんだと少し安心した。
ちなみに、祖母が読経中に傾いたのは、出来るだけ音源から遠ざかろうとしていたためだったそうだ。
これに懲りたので、四十九日の法要の法要では、一番短いコースでお願いすることで親族内の意見が一致した。
17時に我輩のレンタカーを含むクルマ2台で葬儀社を出発し、17時20分に実家に到着。
その後、遅れて葬儀社の人が来て床の間に祭壇を作ってくれた。
●帰省3日目(2月19日)
この日の午前中は、火葬場へ行く途中で見かけた県営住宅へ、レンタカーに乗って行ってみることにした。
8時頃実家を出発。
空には雪が舞っており寒々としている。
昨日の記憶を頼りに道を辿って行くと、確かに県営住宅が見えてきた。
近くにクルマを停め、カメラを持って歩いてみた。
博物展示ではなく実際に住民が住んでいるのだから撮影出来ない状況もあるかと思ったのだが、すれ違った1人だけで他に人影も無い。見ると、空き部屋もかなりあるようだった。
我輩は住宅内を歩きながら、懐かしい風景を「Nikon D200」と「FUJI GA645Wi」で撮っていった。
<県営住宅> |
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[FUJI GA645Wi/Kodak E100G] 2010/02/19 |
その後クルマに戻り、平成筑豊鉄道が見えるところまで移動した。
かつては国鉄田川線として2輌編成くらいのディーゼルカーが運行されていたのだが、今では第三セクター運営となりワンマン運行とするため料金箱が設置されたレールバスが1輌編成で走るだけとなっている。
我輩は子供の頃、日曜日などに「散歩に行こうか」と祖父に誘われ、歩いて30分の最寄り駅から田川線のディーゼルカーに乗ったものだ。
ディーゼルエンジン特有のカラカラカラ・・・という音を聞きながら、かつて石炭採掘で賑わった町やボタ山を車窓から眺めた記憶が蘇る。
そんな想い出に耽っていると、近くの踏み切りが鳴り始め、派手なカラーリングのレールバスが通過した。
数年前帰省した時にレールバスには乗ったのだが(参考: 雑文504)、国鉄当時の面影など全く無く、ガッカリさせられたことを想い出した。運転本数も1時間に1本と少なく、もう乗ることもあるまい。
<平成筑豊鉄道のレールバス> |
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[Nikon D200/18-70mm] 2010/02/19 10:12 |
さて、10時半頃に実家に戻ると、叔母さんが来ており、香典の集計をしていた。
その後、11時頃に寺へ行って礼金と果物を届けに行ったのだが、これがまた死ぬほど狭い道を通らねばならず、ドアミラーが壁に擦りそうなほどだった。寺の出入りにしても、何度も切り替えしせねばならない。
田舎の道はこれだから困る・・・。
<寺> |
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[Nikon D200/18-70mm] 2010/02/19 11:23 |
ところで、祖父がお世話になった介護施設について、まだ荷物が置きっぱなしで取りに行かねばならないということで、お世話になった挨拶がてら介護施設まで我輩の母親と叔母さんをクルマに乗せて行くことになった。
行ってみると介護施設は立派な建物で、事前に連絡していたおかげで祖父の荷物などは台車に載せられすぐにクルマに積み込める状態にまとめられていた。
叔母さんは親族の中でも特に話好きで、介護施設の事務室にいた女性職員と祖父の話題で話が盛り上がった。
その際、美人のAさんの話が出たのだが、実は我々と話をしている女性職員が、あのAさん本人であることが判明し、皆でビックリした。
しかし残念なことに、Aさんは大きなマスクをしていたので顔が分からない・・・。
その後、祖父がリハビリをしていた部屋や寝ていたベッドなどを見に行ったり、他の介護職員の方と話をしたりして小一時間過ごした後、再び事務室のところまで戻ってきた。
しかし我輩はモヤモヤしたものを感じていた。
「Aさんが美人なのか確認したい。」
そこで我輩は、Aさんを囲んで3人で記念写真を撮る提案をしてみた。
すると叔母さんもAさんの顔を見てみたかったようで「そうしよう」とAさんに頼みに行き、マスクを外したAさんを見ることが出来た。
確かにAさんは美人であることに間違いないのだが、それよりも、我輩の好みと共通するものを感じて驚いた。20年ほど前にフジテレビの「プロ野球ニュース」に出ていた石川小百合アナウンサーの若い頃に似ている。かわいい系ではなく美女系である。
ちなみに、この時持って行ったカメラはたまたまデジタルカメラの「Nikon D200」のみであり、フィルムでの撮影は叶わなかった・・・。
<美人Aさん> |
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[Nikon D200/18-70mm] 2010/02/19 15:40 |
夜、テレビのローカル番組を観ていると、飯塚市に近い桂川(けいせん)町にある「王塚古墳」が紹介されていた。見ると、古墳近くの「王塚装飾古墳館」では、古代の絵の具の材料が各色展示されており、我輩はそれに興味を持った。
「当時はどんな材料で色を出していたんだ・・・?」
レンタカーはあともう1日借りているので、次の日にでも行ってみようと考えた。
●帰省4日目(2月20日)
レンタカーはこの日の18時まで借りている。とりあえずは葬儀関係も落ち着いたことから、千葉の自宅へ戻るには、この日の夕方にしようかと思う。
まず午前中は「王塚装飾古墳館」へ行く。
朝10時頃、桂川町に向けてクルマを出発させた。
片道1時間半ほど。長距離と言うほどでもないが、慣れないクルマであることを考えると、気楽なドライブだとも言えまい。
カーナビゲーションではフォローされないような新しい道(近道トンネル)では多少混乱したが、何とか目的地の「王塚装飾古墳館」に到着。
<王塚装飾古墳館> (※帰りに撮影) |
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[Nikon D200/18-70mm] 2010/02/20 12:15 |
クルマを駐車して建物に入り、入場料を払って展示コーナーへ行ったところ、すぐ目の前に「撮影禁止」の看板が・・・。
慌ててカメラを隠し、目的の展示物のところへ行ってみた。
お目当ての「古代の絵の具材料」については、それぞれの色についての鉱物材料が説明されており興味深かった。写真に撮れぬならばと一生懸命覚えようと思ったが、ムダだった。我輩の脳内一時記憶装置は容量が小さいのだ。
せめて筆記用具が手元にあれば・・・。
その後、外に出て隣接する王塚古墳を見に行った。
残念なことに古墳の一部は削り取られて宅地化されていた。詳しい経緯は知らないが、恐らく古墳発見前に、古墳とは知らずに小山を削ってしまったのではないかと想像する。そうでなければここまで古墳に食い込むように家が建つはずがない。
<王塚古墳> |
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[Nikon D200/18-70mm] 2010/02/20 12:11 |
さて、これ以上ここにいても何もすることが無いので、同じ道を引き返して実家に戻った。
時間はまだ14時。時間があるので、祖父の遺品の中から持ち帰られるものを見付けようと思った。
祖父の遺品は、祖父が介護施設に入った頃から祖母がかなり処分していたとのことで、もうほとんど残っていなかった。
残っているのは写真やほんの少しの書籍類、レコードや祖父の卒業アルバムくらいだった。ただ、ほとんど残っていないとは言っても、もらって帰るには量が多い。宅配便で自宅へ送るにしても、全てを置くには場所が無い。
そのまま残しておくと全て廃棄されそうな雰囲気だったのだが、残念ながらレコードは諦め、それ以外を宅配便で送ることにした。
夕方になり、母親を乗せて小倉へ向かった。母親は小倉に住んでいるので小倉駅で別れることになる。
小倉のトヨタレンタリースでクルマを返した後、小倉駅で母親が豚児用の土産を買い、我輩に持たせてくれた。
新幹線は自由席であるから、特に「この時間の列車でなければならない」という縛りは無いが、東京の到着時間を考えると遅くとも18時前後の便に乗らねばなるまい。
ここ最近は、クルマで帰省していたので、このように故郷を離れる列車の時間を待つ寂しさは久しぶりだ。
改札を通って振り返り、母親に手を振った。
皮肉にもこの瞬間に、九州にいたのだという実感が涌いた。
しかし感傷的になっていたのも束の間、よく考えれば、また半年後に初盆で帰ることになることに気付いた。
夏の帰省の苦労を考えると、今から気疲れして汗が出そうだ。
「はやく家に帰ろう・・・。」
新幹線に乗った我輩の気持ちは、ただそれだけだった。
<小倉駅> |
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[Nikon D200/18-70mm] 2010/02/20 18:17 |
●120フィルムを現像
今回の帰省を終え、「FUJI GA645Wi」で撮影したフィルムを現像に出したところ、そのほとんどがイメージ通りの露出で撮られていた。TTLでない露出計でありながら、フルオートでここまで巧く写るカメラも珍しい。
それはつまり、段階露出をせずとも採用カットが得られ、無駄ゴマが発生しないことを意味する。
無駄ゴマが発生しないということは、実質的にコマ数が増えたとも言える。35mmカメラに近い感覚で使うのも良いかも知れない。
驚くことはそれだけではない。実はこのカメラを手に入れて以来7年近く(参考: 雑文450)、1度も電池を交換していないのだ。ストロボやAF、AWなど、電力を喰う仕組みが詰まっているように思ったのだが、全く電池が減らないので逆に心配になる。
古代の超テクノロジーで作られたオーパーツの電池なのか・・・?
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