先日、オークションでゼロハリバートンのノートパソコンを売却した。
まとまった金が手に入った。
次の日、カメラのチャンプたまプラーザ店で「FUJI GA645Wi」の委託品を購入した。
まとまった金が出て行った・・・。
我輩は今まで、中判としては66判を専門に使ってきた。それは我輩のポリシーである。そうでなければ、手に入りにくい
66判の対角線魚眼レンズなど大金を投じて手に入れたりはしない。
(66判魚眼レンズの入手価格は諸経費を含めると645判魚眼レンズの2.5倍だった)
もしここで645判を受け入れることになれば、今までの苦労が報われない。我輩の状況として645は受け入れられないのである。
そもそも、中判導入前にさんざん熟考した結果選んだ66判。再考の余地は全く無い。
しかしながら、これまで何度か645判の誘惑に負けそうになったことがあった。そのことは
雑文425でも書いたとおり。
645判の魅力は、フルオートカメラが用意されているということと、撮影枚数の多さである。220フィルムを使えば32枚撮りとなる(カメラによっては若干少ない場合がある)。
気合いを入れた撮影はあるとしても、それとは別に、フルオートでフィルム残数を気にすることなく気軽に撮影したいこともある。
ならば、66判と両立させることは出来ないか?
しかし、それぞれの位置付けが難しい。66判は情報量を詰め込んだ「作品」と言えるが、645判はどうする?その存在理由は?
現在、我輩は中判の写真整理は一貫している。プリント写真(メディアプリント)に焼き付ける場合でも、縦位置の印画紙に66判の正方形のままノートリミングで配置し、その下の余白に撮影データを記述する。それが統一フォーマットである。