我輩が小学校低学年の頃、学校中で我輩の名前を知らぬ者はいなかった。
当時はまだ、父親と母親と一緒に暮らしていたのだが、父親は選挙カーに乗って自分の名前を連呼していたのだから、名前が知れ渡っているのは当然である。
まだ幼い我輩ゆえに選挙活動の意味も知らず、同級生にからかわれても何とも思わず無邪気なものだった。
時には父親に連れられ、どこか知らぬ場所(今から考えると役所か)で2人でプラカードを持ったりした。その行動がどういう意味かは分からなかったが、深く考えるには幼な過ぎた。
当時の記憶を呼び覚まして現在の頭で考えると、色々と父親の政治活動の場に連れて行かれたのだ。
(参考:
雑文410)
現在、我輩は父親とあまり仲が良くないが、あまり接触の機会も無いため無問題。最近では4年前に一度会ったくらいだ。
(参考:
雑文072)
しかし、今の我輩自身を考えてみれば、選挙で投票する以外に何も政治に参加していないことに気付く。
世の中の風潮を嘆いたりはするものの、特に自分で活動を起こしているわけでもない。
結局は人任せ、政治家任せ。
先日の選挙では、我輩は少年法改正について積極的な政党に投票しようと考えたのだが、選挙公約で大きく謳っている政党は無かった。だが、たとえ公約で大きく謳っていようとも、公約が実行されるかどうかは分からない。
有権者は政策に投票するのではなく、政党に投票するのである。よって、国民審判と言われる選挙であろうとも、結果的に民意が反映されることは少ない。某政党が選挙で惨敗しても頑なに「我々の政策は国民に支持されている」と言い張ることが出来る。
そもそも、公約に無いことを実施させるには投票行為だけでは不可能。
結局、世の中を変えるには、自分自身が公約を掲げ立候補せねば何も始まらぬ。未来の自分たちの生活は、与えられるものでも選ぶものでもない。自分自身が創り出すこと以外に方法は無い。
そういう意味では、こんなことを言うのは悔しいのだが、父親はその点に於いてのみ尊敬出来る。
父親の姿を思い返すと、我輩は、今の自分の行動が極めて受け身だと感ずる。
労働条件、地域の治安、税金など、日常での不満は数多い。しかし不満がありながらも現在の生活をそのまま受け入れているのだ。
人間は、生きる目的の一つとして、世の中を変えていかねばならない。
世の中を変えることが出来なければ、つまり、自分が生まれる前と死んだ後を見比べて、世の中が全く自分の影響を受けていないのであれば、それはすなわち、自分が居ても居なくても関係無かったということになる。
それで良いのか?
未来とは、未だ来ていない時代のこと。
未来がどうなるかは未定。現時点で決まっていることは何も無い。しかし、未来は現在の延長上にあることは確かである。つまり、現在の我々の行動が未来の姿を創り出す。予定されたものが自動的にやってくるのではない。何もせず待っていれば良いものではない。
未来とは、現在の我々が創るもの。
さて、この話をカメラの分野に当てはめることも可能である。
現在、デジタルカメラの性能が向上し、銀塩カメラのシェアを押し下げている。
それにより、将来は銀塩写真が根絶してしまうのではないかという意見も出ている。確かにその意見はデジタル電子写真以前のアナログ電子写真(いわゆる"電子スチルカメラ")の頃から言われ続けている。
しかしながら、デジタルカメラの性能がどれほど向上しようと、銀塩写真のクオリティを越えることが出来ない面があるのは明白。
なぜならば、デジタルは論理的な限界値がある。
一つは光量幅の問題。
プリントしてしまえば銀塩もデジタルも同じだが、透過光で観るとかなりの違いが出る。
(参考:
雑文143「デジタル画像の表現幅」、
雑文144「ディスプレイ」)
いくら技術的にディスプレイの光量を上げることが出来ようとも、ワープロやWebブラウジングにも使う汎用パソコンの画面をこれ以上明るくするわけにはいかない。そんな明るいディスプレイで文字を読み書きしていれば目を痛めるのは間違いない。ディスプレイメーカーにとってはPL法訴訟もの。
もし写真閲覧に限定したパソコンがあれば心おきなく光量を上げることも出来るのだろうが、写真用途だけのためにそんな限定されたパソコンを買う物好きは少なかろう。
また一つの問題は、画像の緻密感。
デジタル写真の場合には、写真の緻密さはディスプレイやプリンターなどの出力機器の解像度に依存する。
現在世の中に出ているパソコンの画面で、一番細かい表示は205dpi(SONY VGN-U50の液晶ディスプレイ)である。この画面で写真を表示させると非常に緻密に見える。しかしそれは、RDP3などの超精細リバーサルフィルムにはかなわない。RDP3の持つ情報密度はどれくらいか知らないが、少なくとも4,000dpiのフィルムスキャナでも読み取るには十分ではないという事実が参考となろうか。
しかしこれに対抗してパソコンの画面解像度がこれ以上上がるというわけではない。なぜならば、この解像度では通常のパソコン作業が目にツラく、文字を読み続けるのは苦行と言えるからだ。
以上のことから、銀塩写真のクオリティを完全に包含させてデジタルに置き換えるとは不可能だということが解る。
確かに一方向の価値観から見た評価ではデジタル写真は銀塩写真を越える、あるいは将来的に越えることになると言えるだろうが、デジタル写真で銀塩を越えられない価値観も確かに存在するのだ。
ところで、一般大衆はクオリティよりも利便性を重視する傾向がある。もちろん、クオリティが良ければそれに越したことは無いが、そもそも良いものを知らなければクオリティの低いものでも気付くことは無かろう。
そういう意味では、デジタルカメラの台頭は理解出来る。
しかし、世の中の流れがそれで良いのかと言えばそうではない。
自分自身が銀塩の価値観を求めるならば、世の中の流れを変える努力も必要であろう。銀塩文化が縮小していくのを、ただ、黙って見ているだけならば、それは、自分が生きている意味を見出さないのと同じ事。
今の自分に出来ることは何か、それを問い、それを実行する。それこそが、今自分がここに存在する意味の一つであると言える。
我輩は、将来の予測を行う時は、自分の活動が世に影響を与えることを前提にしている。それくらいのつもりが無くては、手間ヒマかけてサイトの運営など出来ようか。
世の中の動向に一喜一憂し、その流れに乗ることしか出来ない受け身の人間になりたいか?
答えは否。
自分は世の中を変える。
だからこそ、今を生き、ここに存在している。
だからこそ、2つの写真サイトを運営し啓蒙活動を行っている。
北風のように単刀直入に主張するサイト(
ダイヤル式カメラを使いなサイ!)、太陽のように暖かく写真を見せるサイト(
中判写真のサムネイル)。
他にも、機会あれば周囲に銀塩の良さを講釈したり、自らもフィルムを大量に購入・現像したりと、活動を続けている。
もし50年後にも銀塩写真文化が生きていたとすれば、その時には、「それは我輩の努力によるものだ」と言い切るつもりである。
未来は、自分の手で創る。