写真撮影には、芸術的写真と記録的写真がある。
一般には、芸術的写真のほうが高尚とされ鑑賞の対象となるが、記録的写真は鑑賞の対象外という風潮がある。
しかしながら、見たままをそのとおり記録するという撮影は意外にも難しい。我輩などは、最近は記録写真のほうに大きく傾いているため、見たままを撮ろうとして何度も苦労を強いられている。なぜなら、芸術写真であれば失敗や予想外の仕上がりとなっても、感性に響きさえすれば良いが、記録写真では思惑通りに撮影出来なければ、いくらキレイな色彩であろうとも、斬新な構図であろうとも意味を為さぬ。
我輩は写真を自分自身のために撮る。それは
雑文260「趣味性」にて書いたとおり。
我輩は芸術家ではない。単なる悪の思想家である。それがたまたま写真を撮っているに過ぎない。
それでも昔は勘違いをして芸術家気取りの写真を撮ったりしたこともあったが、そういう写真のほとんどが、今の我輩には価値を感じられない。
現在、インターネットが普及して様々なサイトが情報を発信している。我輩はそれらを幾つも巡り、自分にとって興味深い内容を追っている。
例えば、珍しい自動販売機を探して紹介しているサイトや、心霊スポットを現地取材して紹介しているサイト、面白い看板ばかりを特集しているサイト、「ドクター・イエロー」と呼ばれる新幹線軌道試験車ばかりを撮影したサイトなど、我輩の興味を満たしてくれるものが面白い。
それぞれに趣味でやっているサイトだけあって、非常に詳細に研究され、マニア以外には全く役に立たないような事にまでこだわっているところが嬉しい。
しかしながら、それらのマニアサイトに掲載されている写真はクオリティが良くない。ハッキリ言ってしまうと、ヘタクソな写真ばかり。
せっかくこだわって作られたサイトであるのに、写真のクオリティにこだわらないことが残念でならない。
我輩はそれらのサイトを見て、「我輩ならばこのように写真を撮る」という気持ちを強く持った。それが、我輩の記録写真に対する一つの目的である。
秩父鉄道の駅舎について興味を持った時、そこに我輩の満足出来る写真を掲載したサイトは無かった。だから、自分でその写真を撮った。
(
雑文349「デジカメは露出計となり得るか(実践編2)」参照)
また廃線ロープウェイに興味を持った時、そこに我輩の満足出来る写真を掲載したサイトは無かった。だから、自分でその写真を撮った。
(
雑文430「廃線ロープウェイ撮影記(前半)」、
雑文431「廃線ロープウェイ撮影記(後半)」参照)
さらには蔵王のお釜に興味を持った時、そこに我輩の満足出来る写真を掲載したサイトは無かった。だから、自分でその写真を撮った。
(
雑文444「蔵王のお釜(1)」、
雑文445「蔵王のお釜(2)」、
雑文447「蔵王のお釜(3)」参照)
これだけでなく、我輩の撮影する写真のほとんどは、「自分で撮らなければ必要な情報が得られない」と考えたことが動機になっているものばかりである。
極端なことを言えば、異星人に遭遇しUFO内部に招き入れられたという者が撮影した写真を我輩が代わって撮りたいくらいだ。少なくとも、ジョージ・アダムスキーやビリー・マイヤーよりもクオリティ高い写真くらいは得られよう。
稀にマニアサイトの中に、写真の腕に覚えのある者が運営しているものもある。しかし気負いが強すぎて、例えばタングステン光の赤い雰囲気中の幻想的な写真や、望遠で部分を切り取るだけの芸術写真に終始していてガッカリさせられる。
必要な情報が、地味であってもキッチリと撮影されているものは本当に少ない。
我輩は芸術家ではない。ただ、自分の興味あるものを、見たままのクオリティを目指して撮る。
他でもない、自分自身のためだけに。