[447] 2003年10月19日(日)
「蔵王のお釜(3)」
10月4日、硬い物を下手に噛んだら前歯の差し歯がグラついた。
そういうことは2〜3年に一度あるのだが、前回は 雑文408に書いた通り、わずか半年前だった。だがまあ、タイミングが悪いというだけの話である。
平日は歯医者に行くことが出来ないため、次の土曜日10月11日ということで予約を入れた。治療まではあと1週間あるが、抜けてしまうことはあるまい。
ところで、最近はインターネットで天気予報をチェックするのがクセになった。山形、宮城の天気である。
もちろんそれは、蔵王に2回行った時の名残。
それにしても、我輩の見る限りでは、東北が快晴マークになったのを見たことがない。まあ、今さらそんなことはどうでも良いが。
10月10日金曜日、その日はかなり忙しく、パソコンの裏画面でさえ天気予報のチェックは出来なかった。
19時頃、ようやく一段落ついたため、マピオンの天気予報をチェックしてみた。
明日土曜日の天気は、全ての時間帯で快晴の表示。ウーム、マピオンは調子がいいからな・・・。
それではヤフーの天気予報はどうか。
チェックするとこちらも、一日中晴れの予報。
ではインフォシークの天気予報は?
こちらも晴れマークのみ。
これはもしかして・・・、本当に晴れるということなのか?
我輩の脳裏に、"I'LL BE BACK" の文字が浮かんだ。
いや、それはさすがに急過ぎる。しかも金が続かない。どう考えても明日行けるわけがない。第一、明日は歯医者に行くその日。
・・・そうは言っても、何がどう変わるか分からんから、とりあえずフィルムだけは買っておくか。家には「Kodak E100G」が10本あるものの、いざ撮影となれば足るまい。帰りにヨドバシカメラへ寄り、もう10本補充した。
普段ならば安いEPPにするところだが、E100Gを購入したのは、意識下では行くことが前提となっていたのかも知れぬ。
家に帰ると、もはや21時近かった。
夕食後ヘナチョコ妻に、明日再び蔵王に行くことをほのめかした。
我輩は何気ないつもりだったが、その話題がきっかけで2時間以上もの言い争いが始まった。これにより、準備を始めようとする時にはもう24時近くになっていた。
確かに、問答無用の態度をとれば面倒は無かったろう。しかしながら信念を持つ行動であるからこそ、その信念を理解させようとして言葉が多くなるのは必然。
結局、ヘナチョコを納得させたかどうかは分からなかったが、ひとまずヘナチョコの怒りも解け、明日の用意を始めた。
実を言うと、カメラ以外の荷物は前回のままに放ってある。そこにカメラとフィルムを入れれば済む。
しかしよく考えると、車中で聴くためのMDプレーヤーが、バッテリー放電状態のまま。これはいかんと、充電を始めた。
また、パーソナルGPSもデータが溜まってしまったので、パソコンにダウンロードしてメモリを空けた。こちらの電池もそろそろ消耗するので、充電をしておいた。
そうこうしているうち、時間はすでに24時半となった。もう寝なければ、早朝4時に起きるのが辛くなる。
充電中の機器などがあるため、必要な荷物は朝になってから詰め込もう。
我輩は布団に飛び込み、気合いを入れて寝た。
それからしばらく経ってから、目覚まし時計の音で目覚めた。
まだ暗い。早朝4時であるから当然か。寝る前の雰囲気と変わらないので、あまり寝た気がしない。だが、気分が高まっているためか、眠たいということはない。
やや肌寒いこともあり、前回よりも厚手のシャツを着て、さらにコンパクトジャケットを丸めてザックに詰めた。この時期、山は寒かろう。
昼飯は、途中のコンビニエンスストアで調達する予定。
今回は最初からお釜のほうへ降りる計画であるから、昼飯時に誰もいないお釜の近くでゆっくりと落ち着いて食事が出来る。少し多めに持って行く予定。
着替えてすぐ、インターネットで天気を見た。
相変わらず晴れの予報。この時間であるから、更新していないということかも知れぬ。念のため、衛星写真を表示させてみた。すると、ちょうど蔵王のお釜辺りの上空に雲の帯がかぶさっているではないか。
「これで晴れの予報なのか・・・?」
一瞬ためらったが、この雲は雨雲ではなく高空にある薄い雲であろうと勝手に解釈した。そうでなくば、どの天気予報も一斉に"晴マーク"を出すはずがない。
朝食は、今回もまたブラウンシュガーのコーンフレーク。
食事後に歯磨きをしていると、不意に差し歯が取れて洗面台に落ちた。カラーンと音を立て、そのまま滑り排水口へ入ってしまった。
「な、なぜだ・・・?!排水口へ落ちるまでに手で止められるくらいの早さだったのに、なぜ止めなかったんだ?」
洗面台に落ちて排水口に入るまでは0.5秒ほどあったように思う。止めようと思えば止められたように感じたが、それをせず見ていただけの自分に驚いた。
とにかく、歯の抜けた状態で山登りなど出来ぬ(人間というのは歯が抜けると体調まで狂う)。今回は歯の治療を優先させるか・・・。それにしても、抜けた歯が無いとまた差し歯を作らねばならない。そうなれば、時間も金もかかる。
複雑な心境の中、我輩は洗面台の下の扉を開いて配水管の様子を見てみた。そこには塩化ビニール製のパイプが配されており、ジョイントはスピゴットタイプのものであった。
「これなら外せるかも知れん。」
パイプを外してみると、水の溜まった部分に差し歯が入っていた。助かった。これさえあれば、歯医者では接着剤で付けてもらうだけで良い。
そこでふと、思いついた。
「自分で瞬間接着剤で付けてみるか?」
幸い、瞬間接着剤は水分と反応して硬化する。歯の接着には適している。後で取れるように縁の部分だけに接着剤を塗り、歯にハメ込んだ。なかなか巧い具合に歯が固定され、グラつく前の状態にまで戻った。
「歯医者は来週だな。」
予約の取り直しをせねばならないが、歯医者の診療時間の関係上、蔵王に着いた時点で連絡を入れておこうと思う。
時間もだんだん迫ってきたので、前回の時刻表メモをそのまま用い、時間通りに家を出た。
時計を見なければ、夜中であるかと思うほど真っ暗で寒い空だった。
すっかり足に馴染んだトレッキングシューズの硬い音がアスファルトに響く。心地よいリズムで坂を下りた。軽いウォーミングアップだった。途中でコンビニエンスストアに寄れば、ちょうど電車の時刻に合う。
その時ふと、気付いた。
「三脚・・・は?」
我輩としたことが、三脚をすっかり忘れていた。これが無ければ、絞り込んで写真を撮ることが出来ない。段階露光のためにフレーミングを固定することも出来ない。自分自身の記念写真を撮ることも出来ない。
次の瞬間、我輩は今下りてきた坂を再び上り始めた。今度は小走りだ。息が上がる。今からこんな状態でどうするんだ全く・・・。
家に戻って三脚をひっつかんで再び家を出た。
これによって、コンビニエンスストアに寄る時間は無くなった。いつもながらに最初の時点から予定が狂う。
駅に着いて列車に乗った。乗り換え駅では少し時間があるので、そこのコンビニエンスストアで昼飯を調達することにした。
気が急いているため、時間的余裕がありながらも急いでホームに向かった。時間はあと10分もある。
ところが思いがけず電車が入ってきた。
「そうか、しまった!今日は土曜日であるから、平日ダイヤか!」
前回は日曜祝日ダイヤだったため、今回と微妙に時刻表が違っていた。危ないところだった・・・。
ホームでは、早朝にも関わらず多くの人間がいた。そのほとんどが、それぞれの趣味を表す格好をしていた。一目見て、自転車の趣味、釣りの趣味、山登りの趣味というのが分かる。週末の早朝は、趣味人たちの時間と言えようか。
電車の中で、しばらくボーっと考え事をしていた。
「果たして晴れるだろうか・・・。」「山の方はどれくらい寒いだろうか・・・。」「寒さはジャケットで足りるとは思うが、手が寒いだろうか・・・。」
そこでハッとした。
「しまった、軍手を忘れた。」
いくら前回の荷物そのままとは言え、洗濯するためにザックから出した軍手は再び入れねばならぬ。すっかり忘れていた。
我輩は動揺を抑えるため、音楽を聴こうとMDを取り出した。
「しまった、ELT(Every Little Thing)のディスクを忘れた・・・。」
充電したMDプレーヤーの事だけに意識が向いていたため、肝心のディスクを忘れたのである。幸い、直前に聴いていたサウンドトラック系ディスクがプレーヤーに挿入されていたため、少なくともそれは聴くことが出来る。しかし、ELTの音楽は力を漲(みなぎ)らせるパワーを持つため、こういう時にこそ聴きたい。逆にサウンドトラック系を聴いていると、暗い運命が更に重くのしかかるようだ・・・。
上野駅に着き、駅前のコンビニエンスストアへ走った。
そこで軍手を手に取り、レジに行った。若い店員は、我輩の格好を見て「タグを外しましょうか?」と言った。なかなか気が利く。
軍手を手に入れた後、すぐ上野駅へ戻り、「みどりの窓口」で白石蔵王駅までのキップを買おうとした。06:18発の「Maxやまびこ201号(E4系新幹線)」である。
ところがこの列車は満席で指定席が取れないとのこと。まあ、帰りのキップで指定席が取れたので我慢しよう。どう考えても、帰りに座れるほうが楽。
新幹線のホームへ行くと、少し時間が早かったのか、並んでいる列は06:10発の「やまびこ041号(200系新幹線)」を待っていた。これは白石蔵王駅は止まらずに通過する。それでも、手前の福島駅で下車すれば問題は無い。
我輩の前には3人並んでおり、座れるかどうかヤキモキしていたが、その心配は全く無用だった。その列車が上野駅に到着した時、もはや最初から席は空いていなかったのである。
我輩が立っていたのは、トイレなどの設置されている通路であった。そのため、外の景色は一切見えない。上野駅の新幹線ホームは地下にあるため、上野駅に入った時点から外の様子がずっと見えなかった。
上野を出て2時間近く経ち、07:42に福島駅に到着。たった2時間とは言え、外も見えない場所でずっと立っているのはやはり疲れる。こういう時は、乗り換え時が気分転換になるのだ。
ホームに下りて、外の景色を見てハッとした。完全に曇りの状態。いや、これは霧なのか・・・。
いずれにせよ太陽が隠れているため、気分が少し落ち込む。
同じホームに、次の新幹線が続いて入ってきた。福島駅07:51発の「Maxやまびこ283号」である。後で知ったが、この便は前駅の郡山駅始発で休日は運休らしい。
さすがに郡山始発だけあって自由席はガラガラに空いていた。我輩は2階の席に座って外を眺めていた。霧はどんどん濃くなり、晴れる気配が全く無かった。
まいったな・・・。
白石蔵王駅には08:03に到着した。前回よりも30分早い到着。これくらい余裕があると気が楽だ。
バスは08:42発であるから、駅の待合室でしばらく休憩した。
空を見ると、霧は無かったがやはり曇り空。
やがてバスが到着し、我輩はバスに乗り込んだ。前回は2人だけだった乗客が、今回は8割くらいの乗車率だった。かなり多い。
しかし、運転手はどこかに消えてしまい、発車時間になっても戻らないのでさすがに我輩も焦ってきた。このバスは遠刈田温泉までしか行かないのであるから、接続が悪ければ刈田山頂行きバスに乗り遅れてしまう。
運転手は2分ほど遅れてバスに乗り込んだ。手には蔵王山麓のパンフレットを持ち、「はい、登山する人は誰〜?」とパンフレットをバスの車内で配って回った。しかしパンフレットの数が足りず、「ごめんなさいねえ。」と言ってバスを発車させた。
パッと見た目、ビートたけしと五木ひろしと間寛平を足して2で割ったようなオイちゃんだった(3で割らないところがミソ)。
オイちゃんは、バスのマイクで話し出した。
「去年のこの時期は車が混んで、朝発車したのに山頂に着いたのが20時。もう暗くなってたなぁ。だから、今日も時間通りに着けるとは思わんでね。(東北弁で言っていたが再現出来ない)」
車内はざわつき、我輩は目が丸くなった。
「なにぃー、着くのが夜だと!?」
そう言えば、インターネット上で見た写真の中に、山頂に通じるエコーラインが車で渋滞している写真を見たことがある。
くそっ、紅葉の時期と重なったか。
しかしまあ、乗りかかった船・・・いや、乗りかかったバスだ。今さらどうしようもない。なるようにしかならん。
バスは途中、在来線の白石駅を経由した。
発車時間となり、駅前ロータリーを出るかと思ったその時、運転手のオイちゃんが急にバスを止めた。
「すんません、ちょっと時間を下さい。(東北弁)」
オイちゃんはバスを降りて観光案内所に駆け込み、大量のパンフレットを持って戻ってきた。
「ハイ、山に登る人〜。」
オイちゃんはまたパンフレットを配り始めた。
オイオイ、今日は道が混んでる日じゃないのか?早く発車しろよ。
だが、オイちゃんの屈託の無い笑顔を見ると、不思議とイライラが苦笑に変わってしまう。
まあ、数時間の遅れに数分足されても大した違いは無い。
白石駅を出て、バスは順調に走って行く。しかしいずれ、山頂に近付くにつれてその速度も遅くなるに違いない。
不思議なことに、あれほど曇っていた空が急に晴れ間を見せ、陽の光が差し込んできた。そしてバスは、予想に反してすんなりと遠刈田温泉まで到着した。
「はーい、ここで降りる人は精算してちょうだいな。山頂まで行く人はこのバスが次の便になるから、そのまま乗ってて。(東北弁)」
ナニ、そうなのか。前回はいったん遠刈田温泉で降りて次のバスをしばらく待ったものだが。
バスはしばらく停車し、トイレに行く者や外で伸びをする者などでバス営業所は賑やかになった。
運転手のオイちゃんは、またまたパンフレットを抱えてバスに乗り込んだ。
「全く・・・、パンフレットの好きなオイちゃんやなあ。」
だがそればかりでなく、バスや新幹線の時刻表まで配り始めた。ウーム、バスの発車時間が過ぎているような気がするが・・・?
「おっとマズイ、もう発車時間じゃないか!(東北弁)」
オイちゃんは帽子を頭に押さえながらガニマタで運転席に戻り、バスを発車させた。その様子はまさにマンガのよう。バスの中が爆笑に包まれた。
バスは、刈田岳山頂を目指しエンジンの回転数を上げた。前回も通ったクネクネと蛇行した道を上って行く。
途中、運転手のオイちゃんがマイクを通して言った。
「もうすぐ滝の見える場所でバス止めますんで。バス降りて近くの階段を下りると滝がよーく見えますからね。降りる人は足下気を付けて行ってらっしゃい。なんか事故があっても私は責任取れませんので、くれぐれも気を付けて下りて下さいな。(東北弁)」
前回はバスは止めたものの乗客を降ろしたりはしなかったが、今回はほとんど観光バス状態だな。
「えーと、時間は2分。階段下りて滝を見たらすぐに戻ってねー。時間が来たらすぐ発車しますよー。(東北弁)」
見ると、渓谷の向こうに見える山々は見事に紅葉しており、眺めはなかなか良かった。だが、我輩は紅葉や滝などの風景には全く興味が無いのであるから、バスにそのまま座っていた。
結果的に、半分くらいの乗客がバスを降りたろうか。
しばらくして、降りた乗客たちが戻ってきた。
「はい、そろそろ時間だけど、みんないる?隣の席にいない人、いない?(東北弁)」
運転手のオイちゃんが確認した。
「はーい、いまーす。大丈夫だと思いまーす。」
乗客のオバちゃんたちが答える。
バスは再び発車した。
「山頂の気温は15度だそうです。いい天気になって良かったねー。それにしても去年はかなり混んでたんだけど、今日はここまではまだ空いてるねー。お客さんたちは運が良いねー。(東北弁)」
だが山頂付近では混んでいることは間違いない。何しろ「三連休」「快晴」「紅葉シーズン」と、条件は全て揃っている。
バスはそのうち、大黒天と呼ばれる場所まで到着した。
「大黒天の見晴台にちょっと寄ってみるー?(東北弁)」
「はーい。」
バスは大黒天に止まり乗客を降ろした。そこには駐車場と売店があり、観光客が溢れている。運転手のオイちゃんは、タクシーの運転手や売店の人間と陽気に挨拶を交わしていた。
我輩はこの場所でもバスに乗ったまま待つつもりだったが、よく考えると、この場所から見える光景はお釜の裏側であるため、写真撮影を行うチャンスだと思いEOS630を掴んでバスを降りた。お釜の地形を考察するには、裏側の風景もまた重要である。
許された時間は4分だったため、それほど歩き回ることは出来ない。写真撮影後はすぐにバスに戻った。
運転手のオイちゃんは先程と同じように乗客の確認をした。
そして念のためか車外スピーカーで叫んだ。
「バスが出るよー!バスが出るよー!(東北弁)」
バスは山頂に向かって発車した。
大黒天から山頂までは近い。だがやはり予想通りの渋滞が始まった。前に見る車の列は全く動いていない。
こりゃあ、1時間や2時間は覚悟が必要だな・・・。
ところがバスは車の列に加わらず横道に入り、山形方面に向かった。そしてその先の道を再び山頂側に折れ、見事に車の列の中間部分に割り込んだ。
オイちゃん、見直した!
今までは時間を浪費するばかりのお調子者だと思っていたが、やるところはキッチリやるんだな。
それでもバスは無数の乗用車に挟まれた状態で、ノロノロと進むしかない。2時間の待ち時間が1時間になったわけだが、やはり撮影時間が少なくなるのは同じ事。
そんな中、運転手のオイちゃんはしきりに横窓から顔を出し、前方の何かを探している。
「うーん、誘導員がいれば通してもらうんだがなー。(東北弁)」
誘導員がいても、前後を車に囲まれているのだからどうしようも無かろう。
「あ、いたいたっ!(東北弁)」
オイちゃんは突然叫び、バスは対向車線に出て猛スピードで渋滞の列をゴボウ抜きした。前方には誘導員がおり、対向車線の車を止めていた。
そういうことか。
オイちゃんは誘導員にすれ違いざま挨拶し、そのまま駐車場へ入った。
時計を見ると、遅れはなんとたったの10分。
素晴らしいぞ。
我輩はバスを降り、靴のヒモを締め直した。
買ったばかりの軍手をはめ、両手を組んで軍手を伸ばし、同時に気合いを込めた。
「よし、行くぞ。」
見事な天気だった。風もほとんど無い。暖かいので、コンパクトジャケットを着る必要は全く無い。
ところで今回は、ただちにお釜の方に降りるつもりであるから、上から全景を狙うつもりは無い。この快晴では惜しいのだが、1分でも時間を無駄には出来ない。上からの写真は家族連れでも撮れるのであるから、トレッキング装備の今撮れる写真を優先させる。
刈田岳山頂には多くの観光客がいた。
だが今回は前回のような迷いが無い。どこから降りれば良いかというのも既に分かっている。目の前の景色に囚われず、今はお釜のほうへ下るのみ。
だがよく見ると、お釜には既に何人かの人影が見えるではないか。
ウーム、一人きりの空間を満喫することは出来そうにないか・・・。まあいい、ともかく写真を撮るためにも下に降りなければ。
降り始める地点へ行くと、そこにも数人の観光客がいた。カメラを構えている男も1人いた。
男はお釜にカメラを向け、「うーん、あそこに人影が見えたんだが・・・。」と言っている。
我輩はその横でザックのフックを固定し、降りる準備を整えた。そして当たり前のように柵を越えて歩き出した。
男はこちらを見ていたが、気にせずどんどん下に降りた。先の道がどうなっているのかが分かっているため、心には余裕がある。
ふと、降りて来た方向を振り返ると、あの男が柵を越えた場所でお釜の写真を撮っていた。
危ないぞ。
今回、降りることについて全く順調で、特別書くことが無い。
降りた後、早速、カメラと三脚の準備を整え肩に担いだ。ちょうど、鬼が金棒を担ぐような格好と言えば良いか。
辺りは前回同様シーンと静まりかえっている。足下には見慣れぬ岩石。どこか別の惑星に降り立ったような気分になる。
ふと、お釜の斜面を見ると、2人の人影が見えた。遠くて分からないが、何となく中年の男女ではないかと思われた。しかし、写真に写せば見えなくなるくらいの距離。構わずに写真を撮り始めた。
この時点で11:00。
お釜の縁へ登ると、湖が見えた。
<地点A>
ところが湖のほとりには、数十人の人影がある。皆、青い服を着ている。高校生くらいの声が響いてきた。静かな場所だけに、遠くからよく聞こえてくる。
よく見ると、そのうち何人かが湖面に石を投げて水切りをしているではないか。何ということを・・・。
引率の者が注意などしないのか? ここは国定公園だぞ。たとえ小石一つであろうとも、湖の水深を人為的に変える行為をしてはならぬ。
青い服はお揃いのジャージか?
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さて写真については、人間が写り込むのは スケール感を導入するのに好都合なのだが、あまりに人数が多く目障りにしかならない。青色も目立ち過ぎる。
そうは言ってもこのまま待っているのも時間の無駄。とりあえず現状の風景を撮影し、後でまた撮れば良い。
それから、惑星探査装置も撮影した。別角度で見ると、どうも人工物のように思えてならない。数センチ移動しているようにも感ずるが・・・気のせいか。
<地点B>
それにしても、彼らのいる場所が場所だけに、どの角度から撮ろうとも、お釜を撮る限りは必ず彼らが写り込む。
昼近くの時間のため、彼らは昼食中なのかも知れない。ならばこのまま待っていようとも時間の無駄。我輩も近くの岩に座って昼飯を食べることにした。
気が付くとお釜の斜面にいた男女2人連れは、いつのまにか帰る方向に歩いて行く。
待てよ、そう言えば歯医者の予約変更の電話を入れるのを忘れていた。刈田岳山頂のレストハウスなら電話があったはずだったが、すっかり忘れて通り過ぎていた。
我輩は携帯電話は持っていないため、ここからではどうにも連絡をとることが出来ない。ヘナチョコ妻にテレパシーを送って歯医者に電話してもらおうかと思ったが、テレパシーは通じない。
仕方無い、少し早めに切り上げて電話を入れることにする。
岩に座ると湖面のほうが見えなくなる。同時に、彼らの騒ぐ声も全く聞こえなくなった。音波を反射させるものが何も無いので、ここまで聞こえないのだろう。シーンとした世界で、ゆっくりとした雲の流れを見ながら食事をした。
鳥のさえずりさえも聞こえず、草木も無い岩のゴロゴロとした大地。それはまさに、生命が海から上陸する前の地球の姿のよう。
地球に生命が発生したのは、地球が出来て間もなくである。
だが、生命40億年の歴史のほとんど大部分が、水中の単細胞生物の時間であった。現在のように、木々が茂り、鳥たちがさえずるような自然の姿は、ここ最近の新しい地球の姿である。
そんなことを考えていると、今自分が、古代の地球を疑似体験しているような気になる。
誰もいない、何も無い。そんな世界が、何十億年も存在していた・・・。
そんな思いに浸りながら食事を終え、ふと立ち上がると、あの集団もちょうどその場所から移動を始めるところだった。
我輩の計画としては、とにかくお釜のフチを一周して様々な角度からお釜を見ようと思っている。色々な角度から見ることにより、頭の中でお釜の地形をより立体的に把握することが出来る。
なぜそんなことが必要なのかというと、お釜の周りの岩石や水による浸食具合を研究するためである。
お釜の周りには、火山灰が降り積もり岩石化した層が見える。水流によって削られた斜面が見える。すぐその先には、堆積した平野が見える。お釜がいくら巨大とはいえ、自然のスケールで見れば箱庭のようなもの。その小さな世界に「風化」「浸食」「堆積」などのエッセンスが詰め込まれている。まさにそれは立体的模式図。非常に興味深い。
通常、それら全ての地形を一望することはなかなか難しい。大きなスケールによって視野が届かず、あるいは木々や人工構造物などによって隠されている。
そういう意味で、お釜は素晴らしい。
我輩の地質学的知識は専門家に比べればかなり乏しいものの、色々と勉強して驚きを発見出来るという点では専門家よりも有利である。
以前にも 雑文037や 雑文260でも書いたが、自然地形を撮影した風景写真は、多くの情報が詰め込まれている。そして、自分が知識を得るごとにその風景に新たな一面を見出し、そして新しい発見をする。それ故、我輩は自分の写真を眺めることに飽きることが無い。
我輩は、単純に「キレイな写真」を撮りに来たのではないのだ。
蔵王のお釜を徹底的に知りたい。そのための調査である。そのために、カメラは情報量を余さず捉える中判でなければならない。もし行き着くところまで行こうとするならば、最終的には山の立体模型を作れるほどに知り尽くすのも良い。
さて、お釜一周について、とりあえず右側から回り込むことにした。
目の前に、少し急な斜面が迫った。
両手が使えないと危険と判断し、ブロニカと三脚はザックに入れ、代わりにEOS630を首から提げた。
その斜面は急ではあるものの硬い岩石面が多く、崩れ落ちるような脆(もろ)さは無かった。とにかくゆっくりと着実に上った。
上りきった我輩の目の前に、広い平野が広がった。すぐさまEOS630のシャッターを切った。
<地点C>
この先を歩くと、遠くから見えていた水無川が目の前にあり、そこに細かい砂が集まっている。水が流れている光景が目に浮かぶようだ。そこに近付こうと思うのだが、砂がかなり深く、足を取られてなかなか進むことが出来ない。汗も流れてきた。
この時点で12:30。
<地点D>
前回の反省もあり、14:00くらいには帰り始めたい。時間はあと1時間半。それを考えると、水無川の調査は簡単に済ませ、とにかくお釜の山頂を目指して上った。
砂のために上るのに一苦労。休み休み上がり、やっと裏側に回り込んだ。もうすぐ山頂。振り向くと、お釜の裏側が一望出来た。来る前に見た、お釜の裏側。そこに今、自分が立っている。
その後、お釜の山頂に到達した。
素晴らしい眺めだ。山を登る者は、このような達成感を求めているのか・・・。
<地点F>
まあ、お釜の頂上に登るのは登山としてはそれほどのことではない。しかし我輩としてはやはり初めての経験でもあり、それなりの感動がある。
その場所で自分の記念写真を撮った。
お釜の背後を振り向くと、そこには水無川の出発点があった。そこから雨水を集めて流れが発生するのであろう。
<地点E>
時計を見ると13:00。
あと1時間で帰り始めなければならない。時間が経つのが意外と早く感じられ、湖面のほうへ急いだ。
お釜のフチから離れ、斜面を降りた。そこには広い平原があり、たった一人でそこに立つと気分が良かった。まるで、前人未踏の地に足を踏み入れたいう感じである。
<地点G>
そこで一つの岩石が目に付いた。岩石が割れて無数の石になろうとしている現場だった。
<地点G>
ここは火山地形であるから、火成岩などが結晶の筋に沿って風化したのであろう。
永い時間の変化のうちのほんの一コマなのだが、大きな岩石や無数の小石と一緒に見ると、その変化の様子が目に見えて興味深い。
途中、小さな沢に出たが、前回の沢とはまた違うらしい。その流れを追って行くと、お釜の湖面に辿り着いた。
湖面は静かで、そこには誰もいない。
さっきまでいた集団が砂を荒らした跡があったが、それ以外は全く人の気配が無い。シーンとした中で、湖面だけがチャプチャプと音を立てていた。
<地点H>
空を見上げると、一筋の飛行機雲。
ちょうどタイミングが良いので、ここだけは絵心を以て写真を撮影した。
この時点で13:30。残りは30分。
湖面では、光の角度によって色の具合がかなり変わる。陽も傾いてきたのか、右側を見ると半逆光気味で湖面が白く光が反射している。
水際まで行くと、少し緑色のある透明な水が涼しげで気分が良い。しかしながら、この湖は強酸性のため、一部の藻を除き生物は生息していないという。
インターネット上で得た情報によると、お釜は昭和14年に測定した時は深さが63メートルあったそうだが、五色岳断崖の崩壊により年々埋まり、昭和43年時の測定では最大深度27.6メートル、平均深度17.8メートル、周囲1,800メートル、東西径325メートル南北径335メートルだったとのこと。
時間が無いので、手早くセルフタイマーで記念写真を撮り、周囲の写真を何枚か撮った。
時間さえあれば、ジックリと火口内面の地層の具合や岩石の様子などを調査出来るのだが、とりあえず中判写真に記録しておき、後でゆっくりとルーペやプロジェクターで拡大閲覧しよう。
そうこうしているうち、残りの30分はあっという間に過ぎた。
時間は14:00。
最終バスは15:20発だが、刈田岳へ登る時間や歯医者への連絡の件もあり、少々余裕を含ませた。もうそろそろ帰り始めることにする。
多分、しばらくここへは来れないだろう。季節のせいもあり少なくとも今年はもう無理だ。次の年であっても、やはりどうなるか分からぬ。今年は三度も訪れたこの場所。行こうと思えばいつでも行けるのであろうが、人間には色々と事情があり、もしかしたら、結果的にこれが最後になることもあるかも知れない。
我輩は、目の前の湖に向かって言った。
「さようなら、ありがとう。」
これが最後になるかも知れないと思うと、そう言わずにはいられなかった。
自然というものを肌で感じさせてくれた蔵王のお釜。我輩の心は、感謝の気持ちに包まれていた。
「ありがとう。」
前回、そして前々回と「東北はもう行きたくない」とは書いたのだが、もうそんなことは言うまい。交通の便が最悪であるが、悪いのはただそれだけなのだ。
東北は、人も良し、地形も良し。
お釜を後にしながら、我輩は何度も何度も振り返り、最後となるかも知れない光景を目に焼き付けた。
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火山は岩を造り、水は岩を削る。その結果出来た地形は、自然そのものではなく自然の表現形である。自然とは、人間の肉眼では見えないものだ。紅葉など、眼に映る表面的な美しさだけしか見ないならば、いつまでもそのことに気付かないだろう。 |
<今回の行程図>
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