過去数回に渡り「
デジカメは露出計となり得るか」ということについて書いてきた。これは、失敗の許されない写真を撮る際に、デジタルカメラの液晶表示を使い大体の仕上がりを予測するという意図がある。
いくら露出計算を緻密に行おうが、数値で表される露出情報から色合いや明るさをイメージするのは難しい。仮にイメージ出来ようとも、そこには確証が無い。
撮り直しの難しい撮影にはそれなりのプレッシャーがある。「間違いなかろう」とは思ったとしても、安全のために何枚か段階露出を多めに行うことになる。
これがフィルムバック交換可能な一眼レフであるならば、ポラロイドバックを装着して試し撮りしたいところ。もちろんコストや手間が掛かるが、万が一にも露出判断を誤った場合、撮り直しのコストや手間、そして精神的ダメージのほうがはるかに大きいのだ。そして何より、撮影中にそのような心配事に気を取られたくない。
今回、勤続10年の節目で得たシーズンオフでの貴重な長期休暇である。我輩はその休暇を「別府地獄巡り」の撮影に費やすこととした。
動かない風景として、なるべく人の写り込まない情景をフィルムに収めたい。そのために、シーズンオフの長期休暇はまたとないチャンスと言える。
長期休暇、撮影コスト、そして労力。撮り直しのきかない状況とは、単に我輩側の都合のことであるが、もしそこに注ぎ込んだそれらのエネルギーを無駄にすることになれば、もはや立ち直ることは出来まい。
そういう意味で失敗が許されない。
だが、いくら失敗を防ぐために段階露出やポラ切りをしようとも、際限無くやれば我輩の財政が破綻する。そこで、デジタルカメラのモニタ機能を利用してポラ切りと同様な効果を得、段階露出の枚数を抑えようとすることを思い付いたのである。
以前の雑文 「デジカメは露出計となり得るか(テスト編〜実践編)」では、その効果と限界を見極めた。
結論としては、保険としての段階露出の枚数を減らすことは出来ないが(+0.5、0、-0.5の3枚撮影)、心配事を大幅に減らすことで次の撮影に集中出来る。
以前雑文にて書いた
一度きりの覚悟のような、もはや撮影行為そのものに意味を見付けようとしたり、自己鍛錬しようとする目的も無い。ましてや写真を作品化する気すら無い。あくまで今回の写真撮影は、対象物そのものが第一目的である。
いくら写真的に雰囲気があろうとも、情報量の減るような撮影は一切行わないようにした。
そのため、デイライトフィルムに適した晴天昼光の条件で撮影することが第一条件であり、色温度の下がる早朝や夕方を避けねばならない。むろん、雨や曇の天候もまた同様。それはまさに、我輩の
趣味性である。
いつもならば「夕焼けが旅情を醸し出して良いかも知れない」などと考えたりするが、我輩の趣味性で言えば、今回そのような写真など全く必要ない。
左は、去年出張先で撮影した京都駅構内の写真である。
初めて降りた駅でふと感じた寂しさ。それが、目の前に広がった夕景で増幅された。その心情を写真に収めようとして我輩はシャッターを切った。
この写真は、その時の我輩の視点であり、我輩の心を表現した「作品」である。この写真を見れば、一瞬であの時の気持ちが甦る。
よって、これは風景写真でありながら風景写真ではないとも言える。その場所が京都駅であろうがなかろうが、この場合どうでも良い。たまたま京都駅だったというだけの話。京都駅など、昼間に見れば何の変哲も無かろう。
しかし今回の撮影では対象物そのものが主体であるため、上のような写真は失敗写真以外の何ものでもない。夕陽のために正確な色が判らず、しかもキツイ逆光で情報量が限られてしまっている。
我輩が風景に求むる趣味性はあくまで「
情報量」であり、そのための撮影作業は現像後に画面を隅から隅まで眺めることを実現させる手段に過ぎぬ。ましてや心情を込めるつもりなど微塵も無い。
そういうわけで、今回は全てのカットが事前に計画されていた。我輩は35mmカメラで過去数回に渡り「別府地獄巡り」で撮影してきたのだが、それらは今回の撮影のための下調べとなった(撮影時にはそういうつもりは無かったが)。
計画された頭の中の絵コンテに沿って、順に撮影して行く。撮影の区切り区切りで振り返り、「撮り残したカットは無かったろうか」と考える。ちょっとでも不安があれば、急いで戻り、撮影をした。
撮影には少なからず苦労があったが、それら詳細は以降の雑文で触れるつもりでいる。