先日、実家に帰省した時に、道の写真を撮影した。
子供の頃から、幅も変わらず、周囲の風景も変わらず、車の通りもほとんど無い。道の真ん中でカメラを構えても大丈夫な場所だ。少しくらいならば寝転がっても平気かも知れない。
この写真をスライドプロジェクターで投影して見ていると、なぜか向こうのほうから誰かが歩いて来そうな、そんな気になる。
写真というのは、時間を切り取り、その一瞬を止める。ただし、動かない風景を写真にすると、動いているのか動いていないのかが区別が出来なくなる。「動かない風景」を撮ることによって、逆に、時間を切り取らずにいられる。
一般的に「動きのある写真」とは、高速シャッターで激しい動きを止めたり、低速シャッターで動きの軌跡を写し込んだりする。それによってその写真を見る者に、「どれだけの時間をそこで切り取ったのか」ということを意識させる。
それに対し、「動かない風景」では、もはやシャッターさえも意識させない。まるで我々と同じ時間がそこで流れているかのようにも感じさせる。特に、我輩はその場所を良く知る人間であるから、道の向こうにある交差点で自動車が行き交うのを想像することも出来る。
もし、この写真の中に、走っている自動車が写っていたとしたら、この風景が止まったものであると意識するほかない。それはあたかも、蝶の標本のように、ピンで留められたものとなる。もはや羽ばたくことがないということが誰の目にも明らかになる。
我輩は今回、無意識に「動かない風景」ばかりを撮ってきた。今思うと、「動かない風景」を撮ることによって、その映像の時間を止めないようにしてきたのかも知れない。
動くことのない写真だと分かってはいても、この写真をジッと見ていると、自分がその場所で何かを待っているかのような気になる。