[286] 2001年07月28日(土)
「一度きりという覚悟」
死後の世界があるのか、それとも無いのか。それは今のところ証明しようが無い。少なくとも死んでしまえば生き返れないことはハッキリしている。だから、死というものは怖い。人生一度きりだという意識が常に働き、自分の身を守ることが最優先される。それが生物としての本能である。
人生一度きりならば、その人生を精一杯生きねばならない。やり直しがきかない人生であるから大切に生きたいと思う。余命いくばくもない者が、劇的な人生を送ることがある。それは、残された人生を精一杯生きようとするからだ。
だが、死を恐れるあまり、不老長寿を願う者も中にはいる。秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めたように、永遠に生き続けようとすることは、すなわち死から遠ざかろうとすることである。
しかし、永遠に生きようとも、そこから真の力は出てこない。「次がある」という甘えが永遠に続くだけのことだ。
我輩は最近、デジタルカメラの手軽さに翻弄されている。特に、一眼レフ型のデジタルカメラを購入して以来、どんな失敗も怖くなくなった。デジタルカメラは失敗写真をその場でいくらでも帳消しに出来るのだ。
適当に、何の考えも無くシャッターを切り、そして気に入らないものがあれば消去する。どんなふうに撮ったかさえ印象に残っていない。失敗がその場で判明するため、液晶画面を見ながらうまく写るまで撮り続ければいいだけのこと。
確かに本体の液晶モニタだけでは確認が難しく、まさか1枚撮影するごとにヒストグラムを表示させて確認するわけにもいかないだろうが、それでも決定的な失敗は事前に確認出来る。
そのような撮影では事前の検討はほとんど無く、結果を見て修正するのみ。露出計の読みをどのように行うか、どのように写真として表現するか・・・、前もってイメージを頭の中で起こそうとしても、今撮影した大量の写真から選り分ければ済んでしまう。
何が原因で失敗したのか、何が原因で成功したのか。それを追求する間も無く結果を得て満足する。そこには「ダメなら何度でも撮り直せばいい」という意識が常に働いている。
銀塩カメラは、現像処理を経て初めて失敗かどうかが分かる。しかし、その時点ではもう撮り直しがきかない。あらためて撮りに行ったりセッティングをしたりしなければならない。だから失敗が怖い。例えるならば、まさに「一度きりの人生」。
失敗が怖いからこそ、自分の持てる能力を最大限に使って全力で撮る。そこに甘えは一切無い。
別に、デジタルカメラが良いとか悪いとか言っている話ではない。要は、それを使う者がデジタルカメラの利点を十分に消化しきれず、ただ手抜きするということだけに気を取られてしまうことが問題なのだ。
「一度きり」という覚悟も無くシャッターを押すこと。それは、写真を写すという楽しみを半減させてしまう。我輩としたことが、今頃それに気付くとは・・・。
これからは撮影直後に現れる液晶画面を表示させないようにする。そのほうが、撮影時に不便であっても自分自身の力を引き出すことになる。「一度きり」の撮影であることを意識させることで、緊張感を以て撮影に臨むことが出来る。
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