我輩は、基本的には液晶表示式カメラを必要としない人間である。データのカラー表示も果たせないそれらのニブいカメラを横目に見つつ、自分の大脳に直結したダイヤル式カメラで写真を撮る(参考:
雑文228「マジック・ショー」)。
しかし、我輩が一目置く液晶表示式カメラがある。
それは「Canon T-90」。初期の代表的液晶表示式カメラである。
T-90は15年以上も前に登場したにも関わらず、現在のカメラと比べても全く遜色は無い。もちろん、評価の視点が違えば全く価値が変わることは理解しているが、T-90の思い付く限りのスペックを並べるだけで、その多機能・高性能ぶりを垣間見る。
「多機能」と言うと「てんこ盛り」というイメージが強い。簡単なことをわざわざ複雑にしてカメラの機能に加えている最近のカメラの影響と言えよう(参考:
雑文134「スパゲティ」)。
だが、T-90の多機能は、手動では難しいことを簡単にしようとしている。特に、8点マルチスポット測光の搭載は、現代のカメラでもほとんど無い。現代のカメラでは、マルチスポットを自動化した「多分割測光」を搭載しているものの、意図を持って撮影に臨む者には、「どう表現されるか現像するまで判らない」という不安が常につきまとう(参考:
雑文238「摂関政治」)。
それはつまり、簡単操作を目指したために、意志ある者に対しては不自由を強いているのだ。
技術は進歩したと言えるが、写真哲学は逆に後退したとも言える。
カメラを信じていれば、自分は結果を待つだけである。それは国民が政治に参加出来ない間接民主主義にも似る。政治はお偉いさんに任せておけばいいということか。
そういう意味でマルチスポット測光は、露出の決め打ちが可能な優れた道具である。慣れれば、現像する前に大体の仕上がりが予測出来る。
外装は使い込めば使い込むほどテカリを増すプラスチックボディー、デザイン原案はあのルイジ・コラーニ作T-99であるが(ルイジ・コラーニのデザインが特別悪いというわけではないが、デザインの常識を破った罪は重い。その後、他社が堰を切ったように融けたデザインに走ることになった。参考:
雑文005「部外者デザイナー」)、それでもT-90の完成度を認めざるを得ない。「敵ながら見事よ」と言わせしむ。
ただ、T-90はシャッターの劣化が始まっているものが多く、今ではおいそれと手を出せないのが残念だが・・・。