博物館での撮影については賛否両論がある。それは承知している。
しかしながら博物館の存在意義を考えた時、極端に言えば、「撮影禁止とするならばそもそも博物館で公開しなければ良いではないか」と思ってしまう。
館内を1日回って全ての解説文を読み、展示品と見比べ、そして頭の中で理解する。また必要に応じて他の博物館での展示と関連させて思考する・・・。
こんなことは、写真撮影せずには不可能ではなかろうか。
何度も通えるような近場にある施設ならばまだ良いが、たとえば北海道など一生のうちに何度行けるだろう。
我輩は物覚えが悪いので、写真に撮ってから後でジックリ眺めて記憶する。我輩にとっての撮影は記憶そのものであることは以前にも書いたとおり。
(参考:
雑文352、
雑文764、
雑文822)
ある時、我輩は小規模な某博物館を訪れた。
事前調査によると、ある岩石のサンプルについて全国の鉱山から集めたものが一覧展示してあるとのこと。サンプルとは言っても、それぞれが一抱えもある大きな岩石で、まさに見応え十分、撮り応え十分。
我輩はこの岩石には思い入れがあるので、サンプルを全て撮影して自分の資料としたく思ったのだが、館内に入ると「撮影希望のかたは許可を得て下さい」との記述がある。
「許可申請は必要だが撮影は可能か」と安心し、そこにいた女性係員に申し出て必要事項を記入した。許可証の発行は無かったが、入館者は我輩1人だけだったので特に問題無かろう。
早速、「Nikon D200」を構えて岩石サンプルの撮影を始めたわけだが、100個近い岩石を1つ1つ撮影するのは大変。それでも、他に入場者もいないようなので落ち着いて撮影を続けた。
ところが、いつの間にか博物館所属の学芸員か研究者と思われるオジイサンが近くに立っており、険しい顔をして我輩に言った。
「そんなにたくさん撮って非常識じゃないですかっ。」
「えっ? えっ? 非常識って?」
いきなりで何だろうかと驚き、そして戸惑った。
「いや、でも撮影許可をもらったんですけどね・・・。」
「撮影許可って言っても、ずっと撮ってるじゃないか。まさかこの石1つ1つ全部撮るわけ?」
「ダメなんですか?」
「いったい何に使うのっ。」
「何って、自分の資料として・・・。」
オジイサンは明らかに最初から戦闘モードだったので、我輩は努めて冷静に、そしてきっちりと話をせねばと思った。
我輩は口下手ではあるが、我輩の行なっている資料撮影には確固たる信念があり、必要だからこそ、遠くまで足を運んで撮影をしている。語るものはたくさんある。
我輩は、「本当に必要な知識というのは事前には分からないもので、意外なところから新たな地平に達するものである(参考:
雑文255、
雑文564)。従って、一連の資料は全て撮影する必要があった。」と述べ、「だからこそ、何に使うのかということを今ここで示すことは出来ないが、それは必ずや自分や人類の存在意義を解明するための第一歩となるはずだ。少なくとも自分はそう信じている。」と続け、「我輩はそのために、分野の区別無く資料を見聞きし写真に撮り集めている。」と説明した。
もしこういう話を思い付きでしゃべるならば、とてもじゃないが胡散臭くて聞いていられないだろうが、我輩は腹の底からそう思っているので、その眼差しに迷いやためらいは微塵も無い。
この世の中にあるもの万物全て、何の変哲も無い石コロに至るまで、その存在は不可思議である。
その由来、組成、性質、それらには必ず理由があるはず。なぜならばそれは存在証明だからだ。「無」からは何も生まれない。物的に存在するということは、何らかの理由があることを証明しているに他ならない。突き詰めればその疑問は、この宇宙の自然法則へと目を向けさせることになるものだが、我輩はその自然法則がどうやって決まったのかさえ不思議に思う。なぜ各種定数が特定の値を取るのか、なぜその数値でなければならないのか、そしてその秩序(COSMOS)は何に由来して現れるのか(何の属性なのか)。
最初は攻撃体勢にあったオジイサンは、我輩の話を聞くにつれて徐々に落ち着いてゆき、最終的には「なるほど、そういうことか」と誤解があったことを認めてくれた。
そして同時に次のような事情を話してくれた。
「こういう資料を撮影して自分の研究論文に勝手に使う輩がいる。また最近では、インターネット上で勝手に図鑑を作って公開する輩がいるらしい。」
確かに、それは我輩も聞いたことがある。
たとえば恐竜展などに行っても、現在研究中の最新化石については写真撮影禁止となっていることはある。なぜならば、それを写真で横取りし、先に研究発表されてはかなわんからだ。
「それにしても、資料を写真に撮ってもそれは本物に及ぶものではないよ?」とオジイサンは言う。
それに対して我輩は、「そのことは百も承知しているが、写真は自分自身の記憶そのものであり、思考するうえで必ず何かの手掛かりとなる。少なくとも、どこにどんな資料が全国のどこにあるのかという個人的目録としても大いに役立つ。」ということを述べた。
その後、我輩はオジイサンに事務室へ招き入れられてコーヒーなどをごちそうになり、色々と話などをした後、化石を2個ほど頂いて帰った。
このエピソードは、博物館撮影についての我輩自身のスタンスを初めて言葉に表した出来事で、それにより期せずして自己の考えを再認識した。
博物館撮影は、我輩にとっての写真撮影をする主目的の1つと宣言しても良かろう。
ちなみにこういった博物館撮影は、デジタルカメラが出現して初めて可能となったものである。なぜならばこの撮影の要件として、「(1)多数カット撮影でもコストが上がらない」、「(2)スナップ的撮影でも細かい描写が可能」、「(3)その場で結果が確認出来て撮り直せる」、「(4)データとして管理が容易」というものであり、デジタルカメラはそれに最適だった。
さて、博物館撮影については、資料の撮影だけでなく、博物館建物や展示室全体を超広角レンズで撮ることもある。
これはもちろん、資料収集のためではなく、あくまでもついでに撮影した副産物でしかない。
しかしながら、こういう写真を後で見返した時、あたかも博物館の素晴らしい空間に入り込んだかのような錯覚に陥る。
確かに、博物館では視覚効果を狙った"見せるため"の演出や効果を施している。しかし館内には、展示品が並べられたことによる独特の空気があり、それが宝探しのようなワクワク感を高める。それは演出によるものだけではない。
こういった感覚が追体験出来ることは、資料写真閲覧とはまた別の愉しみとも言えよう。
今回我輩は、博物館撮影を通して集めた「博物館雰囲気写真」というものの中から、心に残る博物館の一風景をここに寄せ集めた。
素晴らしき博物館たちとして、下に掲載したいと思う。