[352] 2002年05月12日(日)
「記憶のインデックス」
記憶は、単に脳細胞に情報として記録されているだけでは使えない。その情報を取り出すことが出来なければ、情報が無いのと同じことである。
一時的な記憶喪失の場合、脳内の情報は失われていないが、何らかの原因によってそれを取り出すことが出来なくなる。そして、再び情報を取り出すことが出来るようになると、記憶もまた甦る。
また、記憶力が重要となる受験勉強では、脳内に蓄えた情報を取り出しやすいように、語呂合わせや連想・関連付けによって情報の整理整頓をする工夫を行う。同じ情報を蓄えていても、インデックスが有るか無いかで情報の取り出しやすさはかなり変わるのである。
我輩は保育園時代から小学生低学年までの間の記憶はあまり無い。だが、断片的に残っている記憶の中のシーンは、色鮮やかにその動きを再現する。
その幾つかを想い出してみると、その共通点は「写真」であった。
一つは、お遊戯の発表会のシーン。
保育園にはいくつかの組があり、我輩の組は「インディアンの子供」という踊りをやったが、最後の決めのポーズでは槍を高らかに掲げるという打ち合わせだった。しかし、他の者は最後の部分などはいい加減であり、我輩はそれを横目に見ながら「おまえら、最後はこういうポーズで決めるっちゅうたろうが!」と歯痒く思いながらも、まとまりの無い中で自分一人だけ決めのポーズをした。
まさしく、その写真が残っている。
一つは、記念撮影のシーン。
保育園で一人のカメラマン(恐らく保育園の職員)が現れ、園児一人一人をスナップ撮影していた。
我輩はあまり写真に写ることが好きでは無かったため、巧みに写真の順番を避けていた。結局、一番最後に順番が回ってきたが、それでも我輩は写真から逃げ回っており、カメラマンも困ってしまった。
すると、1つ年上のお姉さん園児が「じゃあ、私に任せて」とばかりに我輩をとっつかまえ、頭を押さえて写真に写った。
まさしく、その写真が残っている。
一つは、昼寝の時間のシーン。
保育園では昼寝の時間があり、部屋の中で各自用意してあるタオルケットを掛けて寝る。
その日、我輩は友達と遊びに熱中しており、昼寝の時間になっても寝付けず二人で話をしていた。しばらくすると、保母さんが見回りに来る気配がしたので、急いで寝たフリをした。
目をつぶっていて見えなかったが、保母さんは、どうも園児の寝姿を写真に撮っている様子。そのうち、こちらにも撮影に来た。
まさしく、その写真が残っている。
一つは、室内の記念撮影シーン。
保育園での勉強中、カメラマンがやってきた。我輩は意識して下唇を噛んで前歯を覗かせておどけてみせた。周りの友人たちがなかなかカメラのほうを向かなかったのか、ピントを合わせるのに手間取ったのか、シャッターを切るまでに多少の時間がかかった。その間、我輩は自分の表情を固定し続けていた。
まさしく、その写真が残っている。
今思うと、よくこれほど詳細な記憶が残っていたものだと自分ながら感心する。保育園時代の他の記憶がかなり曖昧であるのに対し、ここで挙げた記憶は、まるで昨日のような鮮明さを持って脳内で再現される。
(赤ん坊の頃の写真とそのおぼろげな記憶もあるが、さすがにこれは、写真を見たことによって後で生成されるニセの記憶であろう。その証拠に、保育園時代のような具体的な描写が出来ない。)
こうしてみると、写真というのは記憶を呼び戻すインデックスの役割をしているように思う。
写真を見る度、薄れかけた記憶が強化され固定される。それと同時に、写真を見ることが記憶のインデックスに触れることにもなる。これが写真の効用だとしたら、写真というものは自分自身を形成した要素の一つだと言うことも出来よう。
よく、「子供のビデオや写真など撮っても、後で見ることは無い」などという話を聞く。確かにそうかも知れぬ。だがそれが、「写真やビデオを撮ることが無駄である」という結論には繋がらない。
国語辞典を想像してみると良い。広辞苑のような情報量の膨大な辞典を購入しても、ほとんどの者にはすべてのページが必要となるわけではない。だが、たった1ページ落丁していたがために、あの分厚い辞典が用無しとなることもあり得る。
情報というものは、事前にその価値が決められるものは少ない。子供が成長し、自分というものを考え始めた時に、必要なインデックスがそこにあれば幸運なことだ。
「記憶」とは、その人間そのものだと言われる。記憶というものを積み重ねながら、自分自身を形成してゆく。それゆえ、記憶を無くした痴呆症の老人は、もはや別人でしか無い。
このように記憶というものは重要であり、それを効率良く管理するには、節目節目でインデックスを付ける必要があろう。幼い頃は自分で記録出来ぬことであるから、両親がその記録の責任を負う。かつての自分が、親に写真を撮ってもらったように、今度は自分が親となり子供の撮影をする。それは、自分の満足のためでは決して無い。あくまで、その子供の一部となるべく、今を記録するのである。
悪の思想家にも純朴な子供の頃があった。
(小学校低学年の我輩)
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