いくら読書好きであっても、辞書を最初から最後まで通して読んだ者はおるまい。
辞書の内容は、項目ごとに完結しており、必要な時に必要な項目だけを活用するのが一般的な使い方と言える。逆に、必要無い項目は全く目を通さないで終わることになる。
「広辞苑」などの辞書となれば厚さもかなりのもの。それだけに、利用されない部分も多かろうと思う。
なぜ、そのような無駄な情報が辞書には詰まっているのか?
その理由は我輩が言うまでも無いことであるが、辞書というのはあらゆる情報を詰め込んでこそ意味のある存在だからだ。
事前に、自分にとって必要となる情報が判明しているのであれば苦労は無い。どんな情報が必要とされるのかは、その時になってみないと分からないのが普通であるから、調べるための辞書には全てを網羅しておかねば対応出来ない。
そういう意味で、辞書というのはそれぞれの使用者にとっては必要の無い項目ばかりであるが、逆にそういうことが大事であると言える。分厚い辞書のほんの1頁が抜けていても用を為さないことがあり得るのだ。
雑文255「写真だけを知るなかれ」にも書いたが、役に立つ情報かどうかは結果が決めることであり、人間が事前に決められることではない・・・。
さて以前、
雑文053「我輩が買う写真雑誌」にて、「写真工業」の定期購入している話を書いた。
あれから6年経ったのだが、いまだに「写真工業」を購入している。
実を言うと、ここ数年、「写真工業」はつまらない内容になってしまった。
最新テクノロジーのカメラ技術を扱っていた記事が、いつのまにかレトロなアンティークカメラを懐かしむ記事に取って代わった。
もちろん、写真衰退期にある現在、あまりに技術的過ぎる記事はウケが良くないのは理解出来る。読者あっての雑誌であるから、あまり頑固であっても休刊に追い込まれるのがオチ。
しかし「写真工業」には「写真工業」なりの位置付けがあって良かったようにも思う。
新製品カメラのX線写真や、設計図面。意味は解らずとも、それらを眺めるだけでワクワクしたものだ。そして、いつかその図面が役に立つ日が来ると思った。
もはや「写真工業」は「写真工業」ではなくなった。
このまま定期購入を続ける意味はあるだろうか・・・?
しかし我輩としては、ここまで購入してきたのであるからそのまま惰性で買うのも良かろうと思った。
記事の技術的味付けは薄くなったものの、それなりに興味深い情報も無いわけではない。今読まなくとも、この先役に立つ記事もあるかも知れぬ。
役に立つ情報かどうかは結果が決めることであり、人間が事前に決められることではない。
今は、辞書の1頁が欠けることのないよう、情報の収集に専念するのみ・・・。