2000/04/05
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表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
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8.リンク
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カメラ雑文

[587] 2006年11月08日(水)
「自分のため(2)」

人間を始めとする動物は、欲求を満たすことによって快楽を感ずる。それは、動物の行動を左右する重要な動機付けである。
「腹が減るから飯を食らう」。これは、欲求と行動の代表的な例であろう。

数ある欲求の中でも、自分を認められたいという「自我欲求」は、社会の中に生きている我々人間の重要かつ知的な欲求である。

社会の中で自分が認められるということ、それはつまり、社会という集団の中で自分が役に立つ存在であるということである。それは、自分自身の直接的な利益である必要は無い。場合によっては、自分の利益を犠牲にして集団に貢献することさえある。

もう少し具体的に言えば、周りから良い評価を受けると心地良くなり、悪い評価を受けると気持ちが沈む。そのため、次に良い評価を受けようとする意識が働き、努力する方向へ向かうことになる。
そういった作用は、集団を維持するために必要なものである。

− − −

前回の雑文「自分のため」では、他者に影響を受けない自分のためだけの写真を撮ることについて書いた。
恐らく、他者の評価で自己を位置付けることに慣れてしまった人間には理解されることは無かろう。
しかし我輩は、基礎的な学習過程を終えて一通りの技術を獲得した者が、表現作品としての写真活動を行なうにあたり、他者からそれ以上の評価を受け続ける必要性は無いと考える。

例えば絵画の世界では、独自の表現を追及した画家というのは、当時の評価は極めて低いのが普通である。
さんざん「邪道だ」とか「稚拙だ」などと酷評され、絵は売れずに絵の具を買うことにも事欠く有様。
まさに、我輩が以前「LOMOは邪道だ」と酷評したことも思い出される(参考:雑文324「小さな野火」)。

しかし画家たちは、酷評に怯むこと無く生活に困窮しながらも自分の絵を描き続けた。これが並の者であれば「もっと人の喜ぶ絵を描いたほうが良いのではないか」と信念がブレ始めることだろう。
他者の評価や生活の向上を犠牲にしてまでも自分を追求しようとするその姿は、邪魔な欲求から開放され、真に自分自身を追求する力を産み出した。
自分というものを、そのまま絵に表現すること。それが自分を満たす唯一のものであるということを画家たちは知っていたのである。

その絵が自分を表現しきれているかどうか、そのための努力が足りているのかどうか・・・。そういった評価が出来るのは自分自身以外に無い。

(ロモグラファーたちが流行に流されることなく一貫して自分のスタイルを追求していくのであれば、それはそれで尊敬に値する。しかしどれを見てもミーハーの域を出ておらず、我々の趣味を侵食する存在にしか見えぬ。)


写真活動について、ここでは自然風景写真(海、山、川など)を例にしてみたい。
「自然風景写真はこのように表現するものであり、そのために必要な技法はこれこれである。キミの場合、ここが足りないから、もう少しここを頑張るように。」などというアドバイスが行なわれる。

このようなアドバイスは、ある意味必然であろう。
なぜなら、自然風景写真は「美しく撮らねばならぬ」という暗黙の了解があるためだ。
美しい自然風景写真は「巧い写真」であり、美しくない自然風景写真は「未熟な写真」ということである。

しかもその美的感覚は万人共通のものに収まっている必要がある。
その結果、定番となる絶景撮影ポイントにカメラマンが群がり、皆が同じ方向に向かって一斉にシャッターを切るようになった。

以前、社内旅行で千葉県の養老渓谷に行った際、皆が滝の景色を撮っている中で、我輩だけが足元の岩を撮影していて「何撮ってる?」と不思議がられたことがある。
まあ、社内旅行という場ではまさに場違いな行動であったとは思うが、我輩としては「この岩は幾千年幾万年の時を経て作られたのだろうか」と興味を持ってしまったわけである。
我輩は、表面的に美しい風景よりも、岩の色や侵食などを見て、その背景にある物理法則に則っり具現化された大自然の姿に気を引かれる(参考:雑文037「ネイチャー・フォト」)。


この季節、紅葉が山を美しく彩るようになった。
確かに紅葉を写した写真は色彩としては美しいが、正直言うと我輩にはそれ以上の関心は無い。それは確かに自然の一面ではあるものの、逆に言えば一面でしかない。

また、紅葉写真の中でよく目に付くのは、紅葉を逆光で撮った美しい写真である。
逆光撮影は、紅葉写真での定石であるという。
多くの人間を引き付ける紅葉写真の定石であるから、結果的に似たような写真が大量生産されることになる。そんな中で、敢えて自分がまた同じような写真を撮る必然性も無いと感じ、フィルムを浪費することを嫌ってシャッターを押す指を引っ込めてしまう(フィルムの心配の無いデジタルカメラの場合では、せっかくだからとシャッターを押すが)。

美しい写真を撮って誰かに誉められたい(評価されたい)という欲求は理解出来るわけであるが、しかし、その欲求を満たすためだけに撮影するだけならば、結局最後には、自分自身に何も残らない。

「そんなことを言っても、自分は誉められたいからではなくキレイな風景を撮りたいから撮るだけだ」と言う者もいるだろう。
では訊こう、何を以て「美しい」と言っている?
そういうことを突き詰めて考えねば、この先行き詰まることになるのは確実。
本当に自分が求めているものに気付くのは、他ならぬ自分自身しかいない。


誰でも、初心者の頃はあった。
写真を撮るにあたり、初心者の段階ではまだ単純に「キレイなものをキレイに撮りたい」というもので良かろう。キレイに撮れれば目に楽しく、そして他者からの評価も受けることが出来る。
これはまさに、欲求を満たして心地良くなるための動機付けである。

しかし次のステップとして、自分がどういう要素に反応してキレイと感ずるのか、それを追求する必要がある。そしてそこで得られた自分なりの結論を、改めて自分自身の作品にフィードバックし、独自の世界を創り出すことが重要である。
これこそが、表現というものを掘り下げ、写真に対するやりがいを生み(他者の要求を満たすのではなく自己の要求を満たす)、自分が撮ることの必然性を持つ。
まさに、自分のために撮る写真である。

世の中、写真に行き詰まりを感ずる者も少なくないようだが、このステップを越えることが出来るかどうかが鍵を握ると我輩は見ている。
このステップでは、写真を撮る動機として欲求を満たすことが重要なため、他者からの評価を受け続けようとして、キレイな写真を撮るための努力がどんどんエスカレートする。だが、いつかその努力も頭打ちになる時が来るだろう。

ただし、敢えて最初のステップにとどまったまま他者のために努力を続けている献身的な者もいるわけだが、それが本人の選んだ道であるならば、我輩がとやかく言うことではない。