5〜6年くらい前、血の気の多い営業のK氏と帰宅の電車が一緒になったことがある。
その場で話題になったのが持ち家のこと。
K氏は家を建てたばかりで、我輩に「家はまだ建てないのか」と訊いた。
我輩はまだ家など考えておらず、冗談交じりに「大地震が過ぎた後に建てることにする」と答えた。
するとK氏の頭は瞬間湯沸かし器のように沸騰し、「大地震の前に家を建てて悪かったな!俺は何も考えてないからよ!俺はオマエとは違うからよ!」と、もの凄い剣幕で怒(いか)り始めた。
K氏のそういう様子は別段珍しくないので驚きはしなかったが、そうは言っても電車の中であるから、他の乗客の目を気にしてそれ以上K氏を煽ることはしなかった。
恐らくK氏は、自分の行動や選択を否定されたかのように解釈してしまったのだろう。そういう意味では、我輩の発言も思慮が足らぬものであったと反省した。
ただ心の中では、「現実から目を逸らすなよ」と思ってはいた・・・。
先日のハードディスククラッシュ(参考:
雑文469)によって失ったデータの中に、デジタルカメラで撮影したデータも含まれていた。そのため、現在はDVD-RAMを用いてバックアップを行うようにしているのだが、過去にCD-Rに保存したデータが心配になり、それらの点検を始めた。
雑文470も書いた通り、我輩のデジタルカメラの最古のデータは1995年のもの。9年前のものである。
当時はデジタルビデオをダビングや編集するパソコン環境が無く、そもそもデジタルビデオカメラ本体にもデジタルI/Oが備わっていなかった(現在でこそIEEE端子が付いているのは当たり前だが)。しかもデジタルビデオカメラ本体は手放してしまい現在では所有していない。
そのため、当時撮影した映像はAV端子からキャプチャしたBMP静止画として保存している。
今それをあらためて観ると、小さいサイズの画像に驚かされる。当時はVGA(640x480ドット)やSVGA(800x600ドット)のパソコンしか無くそれほど小さくは感じなかったのだが、現在のSXGA+(1400x1050ドット)で表示させると本当に小さな画像と感ずる。
かと言って画像を拡大すると、今度はピクセルが粗くなってしまう。
独身時代にヘナチョコ妻と葛西臨海水族園へ行った映像の静止画が残っているが、撮り直しが出来ないだけに残念と言うほか無い。
ところで、実はそれ以前にアナログデータとして電子化した写真も幾つかある。
昔、タムロンから「フォトビクス」という製品が発売された。35mmサイズのポジやネガをセットするとAV端子を介して写真がテレビに映るというものである。最初の製品は数十万くらいするものであったが、代を重ねるにつれ安くなり、6万円くらいで手に入るようになった。
我輩がそれを購入したのは、写真を電子化したいという目的だった。今からおよそ15年前のことである。
当時はパソコンなどは5インチフロッピーから起動するMS-DOS Ver3.0が動く程度で、パソコンで画像保存など考えもしなかった。そのため、我輩は警備員のアルバイトでやっと購入した三菱電機のHi-Fiビデオに1コマ10秒ずつ録画していったのだ。なぜ10秒かと言うと、VHSビデオをスチル再生すると必ず映像が乱れるため、動画再生状態で回しながら映像を鑑賞するためである。
しかしVHSで1コマずつ録画したとしても、どうしても画像の繋ぎ目にカラーノイズが入る。正常に観ることが出来るのは、各10秒のうち5秒くらいのものだった。
だが、憂いは無い。
電子画像が貧弱であろうとも、クオリティ高い35mm原版は手元にあるのだ。
我輩が初めて写真を電子化してから15年、今ではその写真を再び電子化し保存している。そのクオリティは、当時電子化したものよりも遥かに高く、しかもマルチユースである。
銀塩写真という原版がしっかり残っていたからこそ、時代が変わってもこのように対応出来たのだ。
ところがデジタルビデオのように撮影時点から電子化してしまうと、もはや写真はその画質の中に閉じこめられ出ることが出来ない。
我輩は
雑文470にも書いたように、今までにデジタルカメラを数多く購入し使ってきた。しかし、それらの画質は世間で言われるほど良いものではなく、先日購入した最新のデジタルカメラ(参考:
雑文471)さえ満足出来る画質ではなかった。
業務用として使われる高品位なデジタルカメラは、それなりの大がかりな製品である。
カメラの露光面にCCDユニット(デジタルバック)を装着し、レンズが結んだ像を数分かけてスキャンする。それは、「現実」という原版を電子化するスキャナである。そこまでやって初めて、原版が必要とされない電子化が達成される。
一般向けデジタルカメラは、現実という原版を中途半端に電子化し、その原版が消えて無くなれば残されるのは中途半端な電子画像のみ。再スキャンはもはや不可能。
我輩は、電子化するためとしても、クオリティを優先するならば銀塩写真としての原版は残さねばならぬと考える。
新しいスキャナと保存体系が登場すれば、その度に再スキャンしクオリティを向上させることになる。そのため、銀塩写真という原版は無くてはならない。
デジタルカメラしか使わぬ者の、「デジタルカメラの画像を原版とし、デジタルの中で完結させたい」とする気持ちは解る。だがクオリティを優先させるのであれば、それは叶わぬ幻想なのだ。
幻想を信じたいがために、現実を直視せず、必要以上に自分を暗示にかけようとする。「現在のデジタルカメラの画質は、もはや銀塩に匹敵する!」と・・・。
その暗示にヘタに触れようものならば、営業K氏のようにもの凄い剣幕で怒り狂う。まるで、画像を失う恐怖を振り払うかのように。
我輩は15年に渡る画像電子化の努力の中で、何度も後悔を重ねてきた。
そしてその苦い経験の積み重ねによって得た結論は、「原版を無くしてはならない」というものである。
我輩は、リバーサルフィルムを原版と位置付け、それを電子化してプリント焼増しやWeb使用などのようなマルチユースに対応させる。
とても、原版の無い電子画像に大切な映像を乗せる度胸は無い。