子供の頃の夏休み、我輩は母親と旅行に行った。
旅行は無事に終わるかに見えたが、帰りの電車でリュックサックを網棚に忘れてしまった。
リュックサックはその後我輩の元に戻ったのだが、中に入れておいた飴が少し溶けていた。我輩はその溶けた飴を舐めながら、忘れ物をした恐怖感を、飴の味と共にジックリと味わった・・・。
「
雑文040(見慣れた新しい風景)」や「
雑文081(写真の情報量)」と関連する話だが、視点が変わると風景が変わることを先日実感した。
我輩は、電車に乗っても網棚に荷物を置かない。それは、先に述べた過去の体験に因(よ)る。我輩にとって、手荷物を一瞬でも目の届く範囲から離すという行為は理解出来ぬことである。
ところが先日、電車に乗り合わせた一人の男が、自分の鞄を網棚に乗せた。網棚には他の乗客の荷物があり、鞄が少し重なった。我輩は仕事帰りの疲れた目でボンヤリとその様子を見ていた。
そこでふと気が付き、網棚を左右に見渡した。
「おわー、こりゃあ壮観だ。」
各自大事なはずの荷物が1枚の網棚にズラリと並べられている。今まで気にもしなかった網棚にこれほど荷物が置かれていようとは。
これまで何度も電車を利用していながら気が付かなかった。もちろん目には入っていたはずだが、意識に上らない光景だった。
目には映っても心に映らぬもの、それは、日常風景の中にたくさんある。当たり前過ぎるからこそ、心には映りにくい。
自分にとっての小さな発見や感動を、「写真」という視点で切り抜く。それが他人に理解出来なくとも気にする必要は無い。そのような写真は、
ピカソの絵画のように、心の投影である。つまらない写真だと言われてもビクともするな。「そのつまらなさが自分である」と言えるくらいであれば本物。
写真の視点とは、自分自身を投影したものに他ならない。それこそが、芸術の出発点であり、趣味としての写真を面白くする。
人に見せることを意識し過ぎて写真の表面上の美しさや形に囚われるならば、いつか、写真を撮る目的そのものを失うことになろう。自分の撮りたいものを撮りたいふうに撮るのは、アマチュア写真家に許された最大の特権である。
自分の視点に素直になり、臆することなく自分だけの視点を突き詰めろ。