この会社の社内報は、関連会社を含む社員の撮った写真を募集し、社内報を編集しているデザイン会社が審査し掲載する。だが、応募してきた写真が一定レベルに達していない時には、敢えて社員の写真を採用せずレンタルフォトの写真を使っているとのこと。
思った以上に狭き門のようだ。
実は、その会社には我輩の親しい友人がいるのだが、彼は何度か写真を応募しているものの採用されたことは無い。
「気合入れて撮った写真なのに採用されなかったよ〜。」とこぼす。
ふと、我輩自身を考えてみると、別段、表紙に載せてもらおうと目論んで撮った写真ではなかった。
それは、絵ハガキ写真のように全てをしっかりと写し込んだ誰でも撮れそうながらも誰も撮らない写真(参考:
雑文486「仕込み」)、そして、図鑑写真のように特定の興味視点から見た美を意識しない写真(参考:
雑文490「写真をナメてるな」、
雑文260「趣味性」)、である。
そしてそういった写真を、緻密で深い色を安定して記録可能なリバーサルフィルムに写し込むのだ。
そういう撮影はいつものとおりである。自分自身の求める写真を撮ったに過ぎぬ。
ではなぜ、我輩の写真が採用されたのか?
「応募された写真の中で使えるものが無い場合にはレンタルフォトを使う」という話から考えると、恐らく社内報編集者は、絵ハガキのようなしっかりと撮られた写真を求めているのではないかと想像する。通常のフォトコンテストであれば、我輩の写真が採用されるはずがない。我輩にはそういう変な自信はある。というのも、通常のフォトコンテストでは、偶然出くわした情景を心で感じてシャッターを押すというような"感性"を重んずる傾向があるからだ。
それに対して我輩は、まず最初に欲する映像があり、それを得るために執念を燃やし、ありとあらゆる努力を注ぎ込む。時には魚眼カメラを自作したり、時には膨大な借金をしてシフトレンズを購入したり、時には15年続けたペーパードライバーを返上したりした。それらは、我輩にとっては大変な執念と努力である。
我輩の写真に、"感性"という言葉は無い。たとえば感性を備えた人間がよく口にする「光を読む」という言葉などは、我輩にとって理解不能なものの代表である。
たとえ何かの間違いで万人が褒めるようなキレイな写真が撮れたとしても、キレイさとは別の、我輩の求める情報量が無ければ喜びはあまり無い。
もし今回、被写体そのものに深い関心を持ち撮影された写真ということが社内報編集者に伝わったのであれば、我輩はこの上無い喜びを感ずる。写真が認められたということよりも、我輩の意図が伝わったことの喜びである。
まあ、そこまでの解釈はさすがに深読みとは思うが・・・。
載せてもらおうと気合を入れて撮りながらも採用されなかった友人と、自分の欲する写真を撮っただけで採用された我輩。
これこそ、まさに巡り合わせについての良い対照であろう。
自分の信念を疑わず歩み進んでいれば、いつか巡り合わせで総理大臣になることもあるのだ。