ある写真を見た。
それは20年くらい前に撮られた街中の写真で、当時の上映映画やレコードのポスターなどが写り込んでいる。
一見何の変哲もない普通の写真であったが、なかなか丁寧に撮られた写真で、我輩はそこから懐かしい時代の匂いを嗅いだ。
我輩が写真に求めることは幾つかあるが、そのうちの一つとして「観る者をその地へ誘(いざな)う」というものがある。
既存の写真にそれを求める場合もあるし、十分な情報量が得られねば自分自身がそこへ行って映像を採集してくる場合もある。
(参考:
雑文460)
自分で撮った写真であっても、その写真により一層興味を持ち、再びその地へ訪れることは珍しくない。
昔の時代の写真を観た時、無意識に「その時代に行ってみたい」と思うことがある。それが自分の生まれる前の時代のものであっても、懐かしさを感ずることはある。
今回見た写真は20年くらい前のものであるから、まさに我輩の生きてきた時代そのまま。当時の自分自身をその風景にコラージュ(切り貼り)して観ているようだった。
「その地へ誘う」という意味では、それら昔の写真は時代を超えて我輩に誘いかけてくる。
決して辿り着けない時空だけに、想いは強くなる一方。その分、飽きるまで写真を観続けることになる。
そういう写真は当然ながら、過去に仕込まれ現代に現れた。そうなると、未来の世界で懐かしく感ずる写真は、今現在生産されておかねばならぬ。仕込みをサボっていると、未来にその写真を観ることが出来ないのは当然。
しかしながら現在は「アート写真」が多い。我輩はそれを心配する。
昔は、写真を趣味とする者は単純に「キレイに写る」ということを目標に努力してきた。シャッターを押すだけで写るような時代ではなかったため、単純に写すためだけでも多くのテクニックを必要としたのだ。
ところが現在はカメラの自動化が進み、シャッターを押せばサルでも写せるようになった。そうなるとただ単純に「キレイに写る」だけでは写真を趣味とする者たちの面目が立たない。そこで、シロウトと一線を画すために「アート写真」への参入が起こるようになった。
ところがアートが蔓延するとその表現方法のネタが尽き、それを打破するためにスットンキョウな手法で写真を表現する者が現れる。そしてそれが何度も繰り返され、昔であれば失敗写真とされたような写真でさえアートの名を冠されるまでになった。
色偏り、不鮮明、ピンボケ、滲み、フレーミングの傾きやズレ、ありとあらゆるタブーに敢えて挑戦する。
アート写真に対する評価は、「個性的かどうか」ということに尽きる。褒め言葉として良く使われるのは「独自の世界を表現した写真」、反対に貶(けな)し言葉としては「どこかで見たような写真」というもの。
そもそも、評価無くしてアートは存在し得ない。
アートは我輩には全く関係の無い世界。
それまでは「大変そうだな」などと端から見ているだけであったが、最近、少し危惧を感じている。
「もしも、全ての写真家がアート志向となれば、普通の写真は誰が撮るんだ・・・?」
その時代の写真は、当然ながらその時代に生きる人間が撮影することになる。しかし、現代は写真を趣味とする者の多くがアートにうつつを抜かして真面目な写真を撮らず、仕込みをサボっているように見える。
時々、「絵ハガキのような写真だ」という言葉を貶し言葉として使われるのを聞く。しかし、絵ハガキのような写真を撮るのはそれなりにテクニックが必要である。少なくともボタン一つで撮れるものではない。ヘタをすれば、アート写真よりもテクニックが必要かも知れない。
しかしこのような絵ハガキのような普通の写真は誰も撮りたがらない。それはあたかも、真面目な人間はつまらないとされる風潮に似ている。
襟を正して真っ直ぐに立つ者と、ワルぶった格好で少しダルそうに寄りかかっている者が2人いれば、どちらが格好良い?
中身が同じ人間であっても、後者が格好良いと思う者は少なくなかろう。
しかし、世の中全ての人間がワルぶってしまえば、誰が世の中を正常に動かして行くというのか。
「記録写真は一般人が撮っているのだ、我々趣味の人間は高尚なアートを撮るべきだ」と言う者もいるかも知れないが、写真を趣味とする者が今を真面目に撮らねばどうする?
現状、アートの生産は過剰気味であるから、誰かがボランティア精神でアートを離脱し、目の前の時代をカッチリと真面目に撮り残してくれないものか。
アートならば未来でも生産可能だが、その時代を真面目に写した写真は今仕込みをせねば、未来にそれを必要としてももう遅い。