2000/04/05
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表紙

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5.カメラ雑文
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カメラ雑文

[487] 2004年05月20日(木)
「写真の価値」

写真は、自分さえ満足していれば最低限それだけの存在価値は持つ。
極端な例えだが、パンチラ写真などを撮る者にとって、それらの写真は他人には見せられないものの、確かに自分だけの価値を持つ。他人に評価されるかどうかなど問題ではない。
我輩の撮る写真も自分だけに向けた写真であるため、他人の評価を必要としない価値を持つ。まさにパンチラ写真のような価値である(卑下しているわけではないので注意)。

しかし一般的には、自分の撮る写真はどのような評価を受けるのだろうかと気になるのが人情。
そもそも、写真の持つ価値というのはどういうものがあるのか。

ここでは、我輩が勝手に写真評価の種類を幾つかに分類してみた。
全てを分類しきれていないと感ずるが、こうでもしなければ、ただ漠然と「良い写真かそうでないか」などと考えるだけではラチがあかない。また、闇雲に全ての人間から良い評価を得る写真を撮ろうとしても辿り着くことは無い。
自分の写真をどのように位置付け、どのように評価してもらうのか。それをハッキリさせねば、違和感を持つ閲覧者は後を絶たないだろう。

自分の写真の価値をどこに求めるのか。撮る本人がそれを意識しなければ、それが達成されたかどうかという自己評価すらままならない。単に雰囲気のあるそれっぽい写真が撮れたからといって満足しても、一部の人間からは酷評されるだけ。価値の基準が異なれば当然そうなろう。

自分の求める写真の価値とは何か、それを自分の意識の中でハッキリさせることにより、迷い無く写真活動を行う助けとなるだろう。
(なお、ここでは報道写真やコマーシャル写真などは考慮しない。)

<資料価値>
一つ一つの写真は何でもないものだが、それが大量に集まることにより、全体として価値が発生する場合がある。
例えば、駅舎の写真がたった1枚存在してもそれほど価値は無かろうが、全国の駅舎写真が数百数千と集まると「駅舎辞典」としてまとまる。このような辞典はそれなりに高価ではあるが、資料を必要とする者にとってはそれだけの価値があるのだ。
駅舎の例で言えば、写真そのもののクオリティ要求は低いものの、撮影するためには全国を丹念に巡らねばならず根気や情熱は欠かせない。地道な努力が結実してやっと成果となる。



<稀少価値>
単純に言えば、「今となっては絶対に撮ることの出来ない写真」。それがその写真の稀少価値を高める。
例えば昔の風俗・風景を撮影した写真などは、どれほどクオリティが低くとも保存状態が悪くとも、そこには稀少価値が存在する。
7〜8年前、業務で江ノ電を取材した時に、江ノ島電鉄株式会社に戦前撮られた写真を提供してもらうようお願いしたが、そのような古い写真は過去の火災により失われ、もはや愛好家の個人所有の写真が残るのみと言われた。それらの写真には色々な型式(かたしき)の車両が写っているが、中にはたった1枚の写真しか現存していない型式の車両もあった。
それらの写真は写りがどうあろうと貴重な写真である。その価値は誰一人否定出来ぬ。

稀少価値を用いて自分の写真の価値を高めようとするならば、単純に考えると他者が撮らないような被写体を撮影すれば良い。
例えば公衆電話などは、携帯電話の普及によりいつかは消え去ろう。いつの間にか消え去るものについて気付く者は少ない。それ故、実際に公衆電話が消滅した後は公衆電話を撮影した写真には稀少価値が生まれることになる。公衆電話の現物が博物館などに保存されていたとしても、当時の風景に収まった公衆電話の写真は、現物そのものとはまた違った価値を持つ。
他にも、日常風景の代表である電柱もいずれは地中埋設されるとのことで、電柱を撮った写真も同様に価値を持つことになろう。
いずれにせよ、撮影時点で価値を認められるものではないため、それらの写真は長い間日の目を見ることはない。そのことは覚悟せねばならぬ。またあるいは、意外にも公衆電話が消えずに残り、それまでの努力が報われないこともあるかも知れない。だが自分を信じ、地道な撮影を続けることが重要である。

(長い時間待つことを嫌い、このような稀少価値をすぐに得ようとする者がいる。例えば桜の写真を撮る者の中には、良い枝ぶりの桜を見付けると、自分が撮影した同じ枝を他者が撮らぬようその枝を折り取る不届き者がいるそうだ。他を犠牲にして自分の写真を唯一無二とすることにより価値を高めようとする蛮行である。)

<芸術価値>
芸術というのは、ある意味評価が難しい。
もし商業写真ならば、具体的効果を狙った写真であるから、その目標を達成したかどうかという明確な価値基準がある。
しかし商売抜きで純粋に芸術として見た場合、何を以て評価すべきかという基準が曖昧で、見方によってその価値がガラリと変わる。
何しろ芸術の中でも、色や形などデザイン的な追求であるか、奇をてらった現代美術的追求であるか、モノクロスナップのようなファッション的な追求であるか・・・など、芸術の中でもさらに分類が必要であろう。
独自の価値を求めて新たな分野を切り拓く動きも多く、観るほうとしてもどのように観れば良いのか戸惑うこともある(例えば、泳いでいる金魚をミキサーにかけたりする芸術写真もあった)。
この分類を適切に行い、自分の写真の位置付けをハッキリさせねば、思いもよらぬ酷評を受けることになろう。



以上、思い付くままに分類してみた。

もし自分の写真をWeb上などで展示しようとする場合、それらの写真がどのような価値観を以て撮影されたのかをサイトの冒頭に明記しておけば、無用な行き違い(例えば資料価値を期待して撮影した写真に芸術写真的価値観を当てはめられるなど)を事前に防ぐことが出来、より意味のある展示が可能である。

もちろん、一目瞭然で写真の価値観が判るように展示していれば問題は無い。しかし世の中には勘違いをする者が必ずいる。雑文015「写真というものは・・・」雑文260「趣味性」でも触れたが、都市部の鉄道車両を撮影する者の中に、景観・構図など気にせず淡々と車両を撮影する人物がいる。彼のサイトにはそれらの写真を酷評するメールが来るそうだが、彼は自分のスタイルを変えることなく撮影を続けている。
資料性を重視するために数をこなすのが彼の価値観であり、初めから芸術的価値を重視しているわけではない。それを理解しない者の酷評は、まさに不当評価と言えよう。

一方、芸術価値を求めた写真などの場合、その中でさらに価値観が分かれているため、ひとつ間違えばとんでもない酷評を受けるのは仕方が無い。しかしながら余計な言い訳もせず、それらの酷評を"反響の大きさ"と捉えられるくらい肝が据わっているならば、それはそれで本物の芸術家と言えるのかも知れぬ。