2000/04/05
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表紙

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5.カメラ雑文
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カメラ雑文

[365] 2002年08月12日(月)
「想像は現実を通り越す(2)」

先日、九州の実家に帰った時、古い写真を久しぶりに見た。 その中から、高校時代に想いをよせていた女生徒の写真が出てきた。卒業前に撮らせてもらった数枚の写真。非常に懐かしく思うと同時に、まるで昨日のように感じた。これも写真のインデックス効果によるものか。

今まで我輩の記憶の中にあった彼女の姿は、今回その写真を見ることによって大幅に修正された。それまでは、永い間写真を見なかったことにより、記憶の中にある彼女の姿は無意識のうちに美化され現実感を無くしていたのである。
今となってはさすがに恋愛感情こそ残ってはいないが、その写真を見ることにより、「美化された想い出」が「リアルな想い出」へと修正され、あたかも当時感じた心臓の鼓動が今に伝わってくるようだった・・・。


さて、前回の雑文では映画「スターウォーズ・エピソード2」の映像について触れた。
想像力によって創造された映像の味付けの濃さは、現実を遙かに通り越す。画面に目一杯詰め込まれた多くの描写、緻密過ぎて背景から浮いてしまった三次元コンピュータ・グラフィックス(3D-CG)。
そして、決定的に現実感を通り越しているのは、全体的にギラギラした色調だった。
まるで、フジのリバーサルフィルム「ベルビア」で撮影したかのように派手な色の画像は、廃墟ですら極彩色(ごくさいしき)に染まって見える。確かにキレイには見えるが、現実感などとは程遠い。唯一、「伝説」という名のもとに正当化されるのみ。

実を言うと、ベルビアは10年以上前に一度、試しに使ったきり。あの時は、あまりに派手な色調に「こんなもの使えん」と放り投げた。ベルビアとの付き合いは、それ以降無し。
しかしながら、ベルビア自体は現在でも発売中である。いやそれどころか、巷ではかなりの人気らしい。また印刷原稿としても、その派手な色が買われて多く使われていると聞く。現実感よりもイメージを重視するのならば、派手なほうが良いというわけか。あの派手さがどこまで印刷で再現出来るか疑問だが、クライアントの受けが良いというのは事実であろう。


イメージと言えば、ネガカラーフィルムもまたイメージに左右されると言える。プリント時の補正によって如何様(いかよう)にでも色が変わるのである。
言うまでもないことだが、ネガカラーは「元の色が分からない」という最大の欠点がある。現像済みのネガフィルムを光にかざして見ても、色が反転して奇妙な色に見える。そうでなくともフィルムベースはオレンジ色であるため、そこに記録されている色など肉眼で直接読み取ることはもはや不可能。

もちろん、撮影者は被写体の色を知っているはずであるが、それは記憶に頼っているわけで(記憶色)、我輩の高校時代の時のように無意識のうちに美化されているとするならば、いつの間にか現実離れした写真ばかりが周りに集まることになろう。
「最近、キレイな写真が撮れなくなった」などと思い始めたら要注意か。現実そのままの写りに満足出来ぬ身体となり、どんどん派手な色にシフトしているかも知れない。濃い味に慣れてしまえば、今までのものが薄味に感ずるのは当然。

最近では、写真をパソコンに取り込むことは普通に行われるようになった。以前にも書いたが、ネガフィルムをスキャナで取り込むと、元の色が判らず色調整に苦労する。どうしても記憶色に引きずられ、後日改めて見ると微妙に不自然に思うことがある。ベルビアほどでは無いが、意識していないと派手な色へと傾いて困る。
そうなると、素直な色が出ているのにも関わらず、「もっと鮮やかな色だったような気がする。いや、絶対にそうだった。」と、勘違いと思い込みを交互に繰り返し、徐々に記憶色も極彩色の写真ばかりに囲まれることになる。

世の中の風景に現る色は、気象条件や時間帯などにより千変万化する。微妙な色に心打たれシャッターを切るとしても、それが見たとおりにプリント上で再現されないとするなら・・・?
記憶色という名の思い込みによって色が補正されてしまい、ただ単に「鮮やかな写真」で終わる。 撮影時に感じた小さな感動を忘れ、見た目の派手さにこだわるならば、第三者にはもちろん自分自身にさえ撮影時の感動が伝わることはない。
何が自分にシャッターを押させたのか。その「場」に触れた撮影時こそ、撮影の動機があるはず。アートとして思い切った色調整を行うならともかく、撮影後写真に化粧を施すことに、一体何の意味が有る?

スターウォーズのように伝説的物語が背景にあるならば、極彩色もそれなりに似合うかも知れぬ。
だが少なくとも我輩は、撮影の場に立ち会った臨場感をリアルに写真化したく思う。そのため用途がプリントであろうとも、原版はあくまで使い慣れた種類のリバーサルフィルムを用い、原版を片手にイメージの暴走を抑えながらパソコン上で調整する。

深い青空、紅い夕焼け、萌える緑・・・、イメージに引きずられやすい写真は、意外に多い。
もちろん、リバーサルフィルムならば正確な色を保証するというわけではない。銘柄や種類、乳剤番号、鑑賞時の光源など、色を左右する要因はいくつもある。
それでも、ベルビアのような極端な発色のリバーサルフィルムでさえなければ、イメージの暴走を食い止める力は十分ある。少なくとも、「ここにあるポジが原版であり色見本だ」と決めてしまえば、余計な迷いなど無い。


・・・高校時代に想いをよせていた女生徒の写真。記憶の中では、特別に美しく華麗であった。
しかし実際の写真を見ると、ただ小綺麗な女生徒でしか無かった。彼女の魅力はもっと内側に秘めた艶(つや)と知性にあったのだ。それは、実際に彼女を目の前にして初めて感じ取れるもの。美化された記憶の映像には、そのことを想い出させる現実感は全く無い。
シャッターを切ったあの時、高校時代の我輩の切ない気持ちは、写真として彼女の姿に封じ込まれた。美化されない現実感こそが、あの時の気持ちを呼び戻す唯一の鍵だった・・・。