2000/04/05
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表紙

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カメラ雑文

[345] 2002年04月07日(日)
「写真を遺そうと思う者へ」

パソコンの性能は、一昔前のものと比べればまさに「ベラボウ」である。
5年前に40万円だったパソコンでも、今なら数千円である。そもそもそのようなパソコンは、今の時代では使い道がほとんど無いほどに低性能。それほどパソコンの進化は速い。
ハードディスク1つとっても、その容量も飛躍的に伸び、今や100GBクラスのものが主流となりつつある。40MBが大容量だとされた時代が昔に思える。

だが、いくら大容量であっても、パソコンはデジタルデータを取り扱う機械である。その性能の論理的限界はハッキリしている。その代表は、LBA(Logical Block Addressing)によるハードディスクの容量制限である。

パソコンのハードディスクは、セクタが番号で管理されている。その論理アドレスをLBAと言うが、そのアドレス番号の桁は有限であり、現在のLBAは28bitである。1セクタが512バイトであるから、2進数のデータを扱うパソコンが取り扱うことの出来るハードディスクの最大容量は、228x512Byte=137.4GBとなる。BIOSのアップデート等によってLBAを拡張しない限り、いくらハードディスクを物理的に改良しようが、これ以上の容量アップは無理な話。極めて論理的である。


さて、以前も書いたように、パソコンで取り扱うデジタル画像というのは、銀塩写真の画質に勝ることは無い。これは論理的な結論であり、エコヒイキでは決してない。デジタル写真を取り扱うパソコンのアーキテクチャそのものの論理的限界である。

確かに、デジタルカメラの性能向上は認める。最近のデジタルカメラは1000万画素にも手が届きつつある(FUJI FinePix S2 PROの記録画素数)。
だが、写真を単にパソコン上でのみの利用に限定するならば、デジタルカメラの画質はパソコンのアーキテクチャの中では充分に飽和している。限界の低いアーキテクチャの中で比較するのであるから、デジタルカメラで撮影した写真と銀塩カメラで撮影してパソコンに取込んだ写真は、その違いがほとんど認められない(もちろんデジタルカメラには平面CCD特有の眠たい描写があるが)。両方とも同一アーキテクチャの中では画質が飽和しているのだから、当然と言えば当然。
しかしこのことを、「デジタルカメラは銀塩カメラのクオリティに並んだ」という意味として取るならば真実を見誤る。

この問題は、ハードディスクのLBAのように拡張によって解決する話でもない。画像というのは結局、人間の目に映るように「光」というアナログ信号へと変換されねばならない。いくら色数を論理的に増やそうが、その信号がディスプレイで表現出来る範囲を越えれば意味が無い。

デジタルデータを印刷出力することによって銀塩プリントと競うことも出来るのかも知れぬが、プリンターの機種(グレード)によってクオリティに天地ほどの差があるのは問題である。クオリティを一定に保ちたい場合には、余程同じ条件で印刷することに注意しなければ難しい。気を抜けば普通紙などに試し刷りをしてしまったり、新しいプリンターを導入したりするかも知れない。新しいプリンターだからキレイだとは限らない。プリンターにはそれぞれ味があるため、それに慣れるまでは違和感を持つのだ。
これは、プリンターが発展途上であることが原因と言える。昇華型やインクジェット型など多くの印刷方式があるのは、それぞれに一長一短があることを示している。確かに、今後の改良によってこの問題は解決するとも言えるが、逆に、目指す画質へ永遠に漸近するだけで終わる可能性も否定出来ない。どの時点で妥協しそのクオリティを受け入れるか、それが悩み所でもある。

銀塩プリントならば、どれほど安い引伸し機であっても印画紙でなければプリント出来ないため、引伸し機それぞれの味の違いを感ずることも無く、クオリティはある一定以上には揃っている(色や濃度調整は別だが少なくともプリンターほどの味の違いなど存在しない)。


デジタルカメラなどはそもそも作品作りのためのカメラではない。少なくとも、デジタルデータのまま単に保存するためではない。
デジタルの利点は即時性とハンドリングの良さである。デジタルカメラで撮影した後は、速やかに利用・消費せねばならない。少なくともその点に於いて銀塩システムに負けてはならない。そうでなければデジタルカメラを使う理由を失う。
僅かな利便性のためにクオリティを妥協した写真なのだから、その価値を高める唯一の方法は、デジタルであることの利点を最大限に発揮するしか方法は無いのだ。
そのように考えて初めて、デジタルカメラが常に発展途上であることの正当性が得られる。
写真を使い捨てれば使い捨てるほどデジタルカメラの価値を高め、写真を遺せば遺すほどデジタルカメラの価値を貶める。

その時代のみで消費される写真ならば、その時点で得られる性能のデジタルカメラで十分である。次の時代に持ち越すような使い方をせぬ限り、デジタルカメラの写真は、生産・消費の永遠なる循環を以てその価値を維持出来る。

今後、1000万画素を越えるデジタルカメラが次々に登場してくることになる。中にはレンズを交換出来る一眼レフタイプのものもあるだろう。しかし、そんなものに心を惑わされてはならぬ。それらは、その場で写真を利用し消費する立場にある出版業界の者や、写真日記でホームページを飾るのみの写真を撮る者、そしてオークションなど使い捨て用の写真を撮る一般人への用途である。写真を趣味として作品を作る者に対する製品ではない。

だが、そのような製品が我々の趣味を浸食するのも事実である。きちんと棲み分けが出来ていれば良いのだが、業界人や一般人の合理的用途が、写真を楽しむという我々の領域を狭めて行く。
それはあたかも、建物が増えて行くにつれて遊び場を失う現代の子供のようだ。仕方無く街のゲームセンターでたむろするようになる。

だがもし、写真を遺そうと思う者がいるならば、悪いことは言わぬ、デジタルカメラを使うのは止めておけ。間違って銀塩システムが絶滅するようなことがあろうとも、少なくとも今まで撮った写真は時代を貫いて遺る。しかしデジタル写真ならば、絶滅せずとも活発な新陳代謝により、旧い皮膚の如く垢となって剥がれ落ちるしか無い。