写真が「便利だなあ」と思うのは、写す範囲を限定出来るということだ。見せたくない部分は写さない。
写した写真のみで構成すれば、撮影者の意図によってイメージを作ることが出来る。
時にはそれが真実をひっくり返したり、特定のイメージだけを強調してしまったりすることもある。
例えば、外国人が日本に旅行に来て写真を撮る。しかし、どんな国にもあるようなものにはシャッターを切ったりはしないだろう。外国人にとって珍しいと思われるもの、あるいは日本的だと思われるものが被写体として選ばれることになる。
それは「スシ」、「ゲイシャ」、「フジヤマ」、「カブキ」の写真かも知れない。
だが、その写真を見た本国の知人・友人たちは、日本という国の印象を、その写真から受け取ることになる。まさか、「日本人はスシを主食とし、カブキやゲイシャの恰好をしてフジヤマを崇拝する民族である」とまでは思わないだろうが、少なくとも印象としてはその光景が浮かんできても不思議ではなかろう。
我輩などは、アメリカ人はハンバーガーを主食にしているというイメージが「無意識に」浮かんでくるからな。
このように、イメージの力というのはかなり大きい。前にも似たようなことを書いたと記憶するが、逆にこれを効果的に使えば、イメージの再認識に大いに役立つ。
去年(1999年)と今年(2000年)の夏、我輩は実家の風景を撮ってきた(参考
「雑文128」)。
そこには、子供の頃からすっかり変わってしまった風景もあれば、全く変わらない風景もあった。我輩はその両方を撮ってきたのであるが、変わらない風景だけをピックアップして並べてみると、子供時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。
もし、この土地を知らない者にこの写真を見せれば、我輩の子供時代の風景を垣間見せることが出来る。余計な所は見せない。これが大事。
以下の写真は、我輩の子供時代の風景をイメージしたもので、全て現在形で説明することにする。