カラー写真にはカラー写真の、モノクロ写真にはモノクロ写真のそれぞれの味がある。しかしながら、カラーの映像には、直感的な臨場感がある。それは、モノクロでは決して得られない臨場感だ。
去年の12月、NHKで「カラーで見る第二次世界大戦」という番組を放映していた。今までモノクロでしか見たことのなかった時代の映像が、カラーでブラウン管に映し出される。
それはまるで、つい数年前の出来事のようだ。青い空に立ち上る赤い炎、緑色の軍用機、肌色の人間の顔・・・。
歴史の向こう側にあると無意識に思っていたものが、現代と地続きであることを再認識させる。カラーの映像には、そんな問答無用の力があるように思える。
この文章を書くために、録画したそのビデオをあらためて観てみたのだが・・・、時間を忘れて見入ってしまった。
3〜4年ほど前、我輩はマルチメディアCD−ROMの企画のことで、鉄道写真家の南正時(みなみ・まさとき)氏とお会いした。「失われた鉄道100選」という、廃線跡を訪ねた写真の本をCD−ROM化するかどうかという話だった。
その時に見せて頂いたカラー写真に、我輩は強い衝撃を受けた。およそ30年前のカラー写真が、つい最近撮影したかのように、鮮やかな色を保っている。その写真が古い時代のものであることを示すのは、唯一、脇に写り込んだ古いデザインの自動車だけだった。
やはり「色」というものは、単に情報を与えるというだけでなく、その映像に対する「距離感」を縮める働きがあるのだろう。
一時期、ワザと古い写真のように見せるための「セピア色の写真」が流行ったことがあった。しかし、古い写真を鮮やかなカラーとして見せられることは、逆に時代というもののスケールを考えさせる。セピアに着色した写真は、その時代の中で消費されるだけのファッションに過ぎない。
時代というものには特定の場所は無い。止まることなく流れ続ける時代は、いつの瞬間でも貴重な対象物である。
それらの写真を残すことは、現代に生きている我々の、未来の人間に対する義務でもあろうかと思う。
写真の基本は「記録」であり、対象物に忠実な写真を得ることが無くてはならぬ。そのためにも、
前回書いた、写真という文字について考えることが意味を持ってくる。
カラー画像を長い間に渡って保存し続けるには、多大な苦労があろうと想像する。写真の所有者には、これからも貴重な資料を永く保存されることを願うばかりだ。