2000/04/05
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表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
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カメラ雑文

[101] 2000年 7月31日(月)
「写真という文字」

我々が今、目にしている光景は、果たして現実世界をそのまま現しているのか。哲学的な問いだが、科学的にも意味のある問いだと思う。もちろん、科学に裏打ちされた写真も例外とは思われない。

以前、「色というのは幻に過ぎない」と書いた。 しかし、それは色だけの問題にとどまらない。
人間の眼は2つある。それによって立体視が可能である。なぜ立体視が可能かというと、左右の目が捉える映像の、ほんの僅かなズレを脳が認識するからである。更に突っ込んで言うならば、人間は2つの映像を脳内で重ね合わせて1つに合成する能力を持っている。それ故、我々は2つの眼を持ちながらも、実際に見る映像は1つしか見ない。

網膜に映った2次元の平べったい映像が合成されるということは、脳の中で映像を再構築しているということに他ならない。
例えばここに、自動車の設計図の3面図があるとする。「正面」・「上面」・「側面」の図面だ。これを見ると、何となく自動車の現物が浮かんでくるような気がする。3つの図を基にして頭の中で想像したというわけだ。
立体視も同じことである。目の前のものが立体に見えるのは、脳が2つの画像を基にして、1つの立体映像を頭の中に創り出して(再構築して)いるからだ。

草食動物では左右の眼は離れており、2つの眼が捉えた映像は、ほとんど重なる部分が無い。いち早く敵を察知するために、広い範囲を見渡す必要があるからだ。そのため、我々とは違う世界が彼らの脳内に再構築されていることになる(もし人間がそれを見ても、左右の違う景色が重なって見えるだけだ)。
もし仮に、草食動物の左右それぞれの眼に、我々が見るような左右の映像を投影したとしたらどうなるだろうか?
2つの映像を重ね合わせるという機能が脳に備わっていないため、恐らく、同じ景色が両方に広がっているように見えることだろう。

魚では、「魚眼レンズ」という言葉もあるように、その視野は180度に近い。光学的に見れば、ドアスコープを覗いた時のように、映像が歪んで見えるはずだ。しかし、我輩はそうは考えない。恐らく、魚の脳内では外界の様子が再構築され、網膜に結像されたものをそのままを受け取っている訳ではないと想像する。彼らの見ている映像は歪んではいない。もちろん、細かいディテールまでは見えないかも知れないが、脳内で再構築された世界は、人間の見ている世界を遙かに越えたパノラマが広がっていることだろう。
彼らに立体視が理解できないのと同様に、我々も彼らの見ている世界を理解できない。

魚とは逆に、猛禽類(ワシタカ類)では、人間ではとうてい及ばない視力を持つ。それは、視覚細胞の密度の高さに由来する。視野の中心では視覚細胞の密度は高く、100m先のネズミが1m先のように見えるだろうとも言われている。しかしこれも、彼らの脳内で世界が再構築されるため、見たものをそのまま受け取る訳ではない。そうでなければ、見るものすべてが近くに見え、空を飛ぶにも支障が出る。
彼らが脳内で再構築した世界は、我々の世界とは比べものにならなくらい緻密なものと言える。人間には、見ることはおろか、想像することすら難しい。例えるなら、普通のテレビ画面でハイビジョンの画質を見ようとしているようなものだ。概念が違う。

生物というのは、自分の生存に必要最低限の情報を得、脳内で情報処理をする。処理速度を落としてまで必要以上の情報を入れることはしない。
つまり、我々が見ている範囲では、現実世界を100パーセントリアルに感じているわけではない。肉眼で見、脳で処理する限りにおいて、情報の取りこぼしは必然である。


これらのことを念頭に置くと、例えば、交換レンズなどを駆使して人間の眼を超えた映像を撮ってみたくはならないか? あるいは、長時間露出や高速シャッター、超微粒子フィルムや赤外線フィルム、180度パノラマ写真、マクロ撮影・・・。方法はいろいろと先人たちが考えてくれた。
もちろん、撮影手法に溺れるのも考えものだが、肉眼を超えて真実に迫るには、いろいろな方法を試すことは必要だろう。

写真という文字は「真実を写す」という意味だそうだが、それゆえ、真実が何であるかということを想像することは大切だ。少なくとも我輩はそう思う。