[740] 2012年01月26日(木)
「納得出来ぬ例え話」
我輩の新しモノ好きは昔からのもので、町内で音楽CDを買ったのは恐らく我輩が最初であろう。少なくとも半径2km圏内では確実かと思う(プレーヤーのほうは後から買ったが)。
たまたま修理で自宅を訪れた電器店修理屋が「ほおー、これはシーディーじゃないですか!」と驚いていたことを思い出す。
その後しばらくして、CDは瞬く間に普及した。
当初は、LPレコードが発売されて数ヶ月後にようやく同じタイトルのCDが発売されたものだったが、そのうちLPとCDが同時発売されるようになり、いつの間にかLPのほうは出なくなってしまった。
レコードは完全にCDに置き換わったのだ。
CDはノイズと音揺れ(ワウ・フラッター)の全く無いクリアな音が素晴らしく、媒体の取り扱いも楽であった。レコードに対する余程のこだわりが無ければ、CDへの移行は必然である。
これは、アナログからデジタルへと変わったことが大きな要因であることは言うまでも無い。
消費者の立場からすれば、音楽そのものの楽しみ方はレコードであろうとCDであろうと変わらない。スピーカーやヘッドホンから音が出るという鑑賞形態は昔から同じである。ただ記録媒体が変わっただけなのだ。
レコードであろうがCDであろうが、どちらも電気を使って音を出すというアウトプットは変わらない。
さて、レコードとCDとの関係は、銀塩カメラとデジタルカメラとの関係に例えられることが多い。アナログからデジタルへの時代の流れが似ていると見なされているらしい。
ところがこれがとんでもない誤解である。我輩はこの誤解を正したい。
まず結論から言うと、銀塩カメラが進化してデジタルカメラが生まれたのではない。全く別系統の製品である。
よく、デジタルに対するアナログという意味で、銀塩カメラのことを「アナログカメラ」などと呼ぶ者もいるが、これは正しくない。というのも、アナログカメラというのは「アナログで記録するカメラ」ということであるから、そこには電子スチルカメラも含まれるからである。いやむしろ、情報処理としてのアナログとデジタルを論ずるならば、そこに銀塩カメラは入ってはこない。
ちなみに電子スチルカメラとは、アナログ方式のビデオカメラからスピンアウトした機器で、言葉を変えれば、「静止画を記録するビデオカメラ」であった。報道現場では、現像処理を必要とせずにすぐさま映像が得られるということで活用された。
しかし一般には全く普及せず消え去った(※)。そのせいで、「電子スチルカメラ」という分野すら知らない者も多いはず。だからこそ、そういう者たちは銀塩カメラのことを「アナログカメラ」と呼んでも違和感を持たないのであろう。
(※デジタルカメラ時代になってもアナログ記録の「京セラDA-1」などが出たこともあったが、今さらアナログなど誰が買うのだろうかと思ったものだ)
デジタルカメラや電子スチルカメラは、電気を用いてディスプレイ上に画を作り出す。
一方、銀塩カメラは電気ではなく物理的なフィルム上に色を残す(ここではリバーサルフィルムなどのカラートランスパレンシー(透明陽画)を前提とする)。
アウトプットが全く違う。
「双方とも紙にプリントしてしまえば同じアウトプットになるではないか」という意見もあろう。それは尤もだが、ならば逆に、「双方ともフィルムにアウトプット出来るか?」と問われれば、デジタルカメラのほうは無理(※)である。やはりアウトプットは異なるのだ。
(※電子画像をフィルムレコーダーで焼き付ける方法もあるが、元の画質をわざわざ大幅に落とすような方法が同等なアウトプットとして位置付けられるはずもない。)
あるいは、仮にアウトプットが異なったとしても、デジタル画がフィルム画の持つクオリティ全てを上回っているのならばレコードとCDの図式が成り立つだろう。
確かに、解像度の面ではデジタルカメラの進歩は著しい。しかし色の深みのほうは、進歩どころか改良の動きすら無い。このままでは、デジタル画は永遠にフィルム画のクオリティには到達しない。
やはりどう考えても、銀塩カメラとデジタルカメラは別系統の製品なのだ。同一線上では語れるものではない。
オーディオの世界では、アナログであろうとデジタルであろうとアウトプットとしての音声は全く同じ形態。だから、レコードからCDへ完全に置き換えることが出来た。
デジタルカメラの場合、同じアウトプット同士を比べようとするならば電子スチルカメラと比べるのが筋。そしてその場合、写真の分野に於いてもオーディオの場合と同様、もう既にアナログからデジタルへの置き換えは完了してしまっていると言うことになる。
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例え話というのは、本質が同じであってこそ利いてくる。
もしレコードからCDへの移り変わりを例え話として持ち出すのであれば、是非とも電子スチルカメラの衰退について語って欲しい。あくまでもこの例え話に銀塩は関係無い。
銀塩カメラにとって不幸だったのは、デジタルカメラとあまりにも用法・用途が近過ぎたことによるユーザーの流出だ。我輩を含む銀塩カメラ愛好者に対しては、レコードからCDのような本当の移行先など用意されていないのである。
もし世の中に、超高画質なカラートランスパレンシー(透明陽画)を作成する機械(あるいはサービス)が登場したならば、我輩はすぐにでも銀塩カメラから移行するだろう。
まさに、町内で一番最初に。
<関連ミニ雑文>
結局のところ、銀塩写真はアナログなのかデジタルなのか?
結論から言うと、どちらでもない。いや、分類する意味も無い。
確かに一見するとアナログ的に見えるが、顕微鏡で拡大して粒子を見ればデジタル的ともとも言える。如何様(いかよう)にでも解釈出来るだろう。
考えてもみろ、例えば油絵があったとすると、それはアナログかデジタルか? もしアナログだとすれば、他にデジタル油絵というものがあるというのか? パソコン上でお絵かきソフトとタブレットを使って油絵を描くと、それがデジタル油絵なのか? それはそもそも油絵ではないのでは? だったら、アナログの油絵という分類も意味を為さぬではないか。
つまらぬことで何でもかんでもいちいちアナログかデジタルかに分けるなど愚かしい。
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