ペーパードライバー歴15年だった我輩がクルマを運転するようになってもうすぐ5年になろうとしている。
我輩がクルマを買う動機となったのは、火口湖「蔵王のお釜」を訪れるためであった。
「蔵王のお釜」は山の上にあり、西は山形駅から、東は白石駅から山頂行きバスが出ており、クルマを持たなかった頃はそれを利用していた。
しかしバスは東西それぞれ1日2〜3往復しか無く、もし最終バスを逃すと行程が根底から覆ることになる。実際我輩は、初回から最終バスに乗り遅れてタクシーを呼んでもらう事態に陥った(参考:
雑文444)。
それでも我輩は、これまで5回もバスを使って「蔵王のお釜」へ訪れた。ようやくクルマを使うようになったのは6回目からである。
普通の人間であれば、バスに乗り遅れた初回訪問時にクルマの必要性を感ずるだろう。しかし我輩には、そもそもクルマという発想が無かった。運転出来なかったのだから当然である。
だから、今振り返ると「よく不便なバスなど利用していたなぁ」と思うわけだが、当時はそれが当たり前だという認識だった。
もちろん当時は、バスの利用に苦労を感じなかったというわけではない。
しかし「蔵王のお釜」へ行くためには避けられない苦労であり、それが"当たり前"ということなのだ。
ところがクルマを導入してからは、クルマの便利さに手放せなくなり、1日2〜3往復のバス路線などもはや利用する気にもならなくなってしまった。
我輩の中で、これは驚くべき変化であった。
クルマを導入した影響は他にも広がり、例えば九州の実家へ帰省した際は2時間に1本のバスなど眼中に無かったし(そのバスも現在では廃止された)、第二の故郷である島根県へ訪れた時も、手軽なレンタカーで済ませてしまい、風情ある一畑電鉄線に乗る機会を逸してしまった。
とにかく、クルマでの移動が前提となってしまった。
ならば写真はどうか。
言わずもがな、デジタルカメラの存在である。
デジタルカメラが存在しなかった時代、そして、存在しても性能的に不十分だった時代、我々は何も不便を感ずること無くフィルムで写真を撮っていた。
最大36枚撮りのフィルムを買い、その場で撮影結果が分からぬカメラで撮影し、現像仕上がりまで辛抱強く待ち、ようやく写真映像を手にしていた。
恐らくデジタルカメラを使った者の多くは、フィルムには戻れないであろう。
メモリカード容量次第で何千枚も撮れ、撮影したその場で結果が分かり、現像せずともパソコン上で写真が得られる。
人間というものは、一度便利なものを体験してしまうと、もう後戻りは出来ないのだ。
だが、我輩はフィルム撮影をやめない。いや、やめられない。我輩は、写真には「クオリティ」を求めるからだ。
フィルムには、デジタルではとても到達出来ぬ「クオリティ」がある。
クルマや携帯電話であれば、得られる結果が同じ(クルマの場合は目的地到着、携帯電話の場合は音声通話)であるから、手段は簡単なほうが良い。
しかし写真の場合は、フィルムとデジタルでは同じ結果が得られない。
デジタルカメラでは、便利さと引き換えに光の眩しさと色の深みを失ってしまった。
眩しさの上限は、ディスプレイのバックライトの上限。色の深みの限界は、データ深度の限界。
いくら色の情報量を増やそうとも、それを出力する手段が、現状無い。
こんなことを書くと、「電子化の流れに適応出来ない頭の固いヤツめ」と思われるかも知れない。
しかし我輩はデジタルカメラ歴15年、フォトビクスによるアナログ電子画像化をも含めれば20年近いキャリアを持っている(参考:
雑文470)。去年、30万円以上もする「Canon EOS-5D Mark2」を導入したのも心の迷いではない。いやそれどころか、NikonからD700の後継機の発売を待っている状況ですらある。
このように、我輩はデジタルカメラ黎明期からその成長を追ってきたのだ。デジタルカメラに対するアレルギーや偏見は無い。
確かに最近では、ローカル線縮小・廃止の如く、フィルムの利用も厳しくなりつつあるが(我輩の利用していたクリエイトラボの新橋店も先日閉鎖された)、クオリティの面で言えば、デジタル写真は到達する目的地がフィルムとは完全に異なる。
フィルムの目的地へ向かうならば、面倒であっても他に方法は無い。ならば、何を今さら面倒に思うことがあろうか。
昔はそれが当たり前だったのだ。