2000/04/05
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表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
8.リンク
9.掲示板
10.アンケート
11.その他企画

12.カタログ Nikon
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カメラ雑文

[588] 2006年11月08日(水)
「自分のため(3)」

近代美術の革新者とされるフランスの画家アンリ・ルソー(1844〜1910)は、今でこそ高く評価されているものの、存命中は「子供のいたずら描き」と嘲笑されていた。
ある時、ルソーが女性の肖像画を描いたところ、その出来栄えにモデル女性が憤慨し、その絵をズタズタに破り捨てたという。
それでもルソーは自分の世界を失わず、描きたいように描いた。そして、報われることなくこの世を去った・・・。

− − −

自分のためだけに撮るのが非常に難しい撮影分野がある。
それは、「女性ポートレート」である。

女性ポートレートを撮るには、撮影会の参加、あるいは恋人・知人へのモデル依頼ということになろうか。

我輩は独身時代、当時付き合っていた女性の写真を撮ることがあった。
ある日、広角レンズで接近して撮り、臨場感のある写真を得ようと考えた。我輩は、その女性の日本人的なのっぺりとした顔つきを愛らしく思っていたので、それを強調する点でも広角レンズを積極的に用いた。
しかし、後日その写真を彼女に見せた時、こう言われた。
「いやだー、お化けみたい。」

結局、この写真は受け取ってもらえなかった。
我輩は、残された写真を手にして大空に向かって叫んだ。
「なぜなんだーっ!」
当時の我輩は、まだ女性ポートレートというものの特異性が解っていなかった。自分の好きなように撮れば良いと思っていた。

女性ポートレートでは大抵の場合、撮影した写真をモデルに見せたりプレゼントしたりするため、否応でもモデル女性の見る目を意識させられる。つまりモデル女性というのは、被写体でありながら同時に写真評価者でもある。
「ヘタクソに撮るとバカにされるかな」、「不美人に撮ると人間関係が壊れるかな」と心配することはもちろん、「俺の撮影テクニックで驚かせてやる」と意気込む気持ちもあろう。
いずれにせよ、モデル女性が写真を見てどのように感ずるかということが非常に重要となる。それはすなわち、モデル女性がその写真を気に入るかどうかということが、その写真の価値を決める絶対的基準となってしまうのだ。

結局のところ、そのようなスタンスで撮影をしている限り、カメラマンが如何にテクニックを駆使して自分の描くイメージを写真化出来たとしても、それはモデル女性の気に入る範囲内でなければならないことになる。
それはつまり、カメラマンは気付かないうちにモデル女性にコントロールされているわけだ。

この問題を考えることなく女性ポートレートを永く撮り続けていけば、自分の感覚や感性は、完全に女性側の視点に矯正されてしまうに違いない。
確かに無難と言えば無難、しかし本当の意味で自分が求めるものを撮れているかと言えばそうとは限らない。もし自分の求める写真が撮れていないとすれば、その写真はもはや、雑文260「趣味性」で言うところの"無償の仕事"である。

もっとも、永く続ければ続けるほど自分の感性が矯正されてしまい、それが元々持っている自分の感性であると考えることに違和感が無くなるのであろうが・・・。

もし本当に、純粋に自分だけのイメージで女性を撮るとしたら、自分のためだけに撮るとしたら、一体どんな画となるだろうか?
それは個人個人によって異なるだろうが、そういった追求の一つのヒントとして、フェティッシュ(=fetish、俗に言う"フェチ")があるかも知れない。

例えば"脚フェチ"や"唇フェチ"などがあるが、そういったものは性的な面を多く含むため、一般には「いやらしい」とか「マニアックだ」と嫌悪されることが多かろう。ましてやモデル女性本人に見せるには勇気がいる。またそれと同時に、撮った側も後ろめたい気持ちを持ってしまう。

しかしそういった追求があるからこそ、例えば女性のボディラインをイメージさせたコカコーラの瓶の形状が成功するのも事実。
コーラ瓶のように、ボディラインの美しさを"要素"として取り出すことが出来るのなら、脚のラインの美しさも同様に取り出すことは出来るだろう。それには、どんなラインが美しく感ずるのかということを知らねばならない。
写真は、そういった自分の感性(どういうものを美しく感ずるのかという感覚)を潜在意識の下から押し上げるための重要な手段なのだ。

我輩の場合は"見下しフェチ"というものがあり、今まで女性モデルに見下したポーズを要求することがあった。だが、そのポーズもモデルによって似合う似合わないがあり、またそのポーズだけをフェチ要素として取り出すことが出来ないこともあり、なかなかフェチとして昇華出来ないのが悩みどころ。
そもそも現在の我輩はモデル撮影する機会が無くなったため、残念だがこの方向性はもう終了とするしかない(誰か引き継いでくれ)。

ところで過去の話だが、我輩は「お化けみたい」と評された事件以降、女性ポートレートを撮る際には気を付けようと思っていた。
そして1年くらい経って女友達Mを撮る機会が巡ってきた。当然ながら、前回と同じ轍は踏むまいと気を入れた。

Mは見かけが良いのでそれまでにも何度かモデルになってもらっていたのだが(参考雑文451「大撮影会」)、自由奔放なヤツでなかなかスケジュールが合わない。それでもようやく撮影の機会に恵まれたのである。

撮影後、写真をプリントしたものを郵送し、Mの反応を見ようと電話で話をした。
すると彼女は、写真を他の男友達に見せたと言い、「おまえのことを本当に気に入っているというのが伝わってくる写真だなあ」と言われたとのこと。

この反応をどう解釈すれば良いのか。
我輩には、男友達の言葉が妙に引っかかる。マニアックに撮ったつもりは無かったが、微妙にマニアックに撮れていたのかも知れぬ。そういうところを、男の目で見抜かれたか。

ただし電話を切った後で気付いたのだが、M自身の感想が無かったのが気になる。
声は少なくとも不機嫌な感じではなかった。それはつまり、M本人は微妙な判定だったが、男友達の評価の言葉を肯定的に受け取ってくれたのかも知れぬ。

それにしても、自分独自の表現として女性を撮影する場合は、余程の覚悟を必要とする。
アンリ・ルソーのように、評価されないどころかヘタクソと言われたりモデルに作品を破かれたりするかも知れぬ(面と向かってヘタクソと言われるよりも、陰で言われていることに気付くほうがダメージが大きいものだ)。
しかしそんなことをいちいち気にするようであれば、そもそも凡人の域を出ることは無かろう。

ちなみに我輩は、アンリ・ルソーに徹する度胸はとても無い。