[581] 2006年08月29日(火)
「夏の帰省2006(その2)」
●8月14日(月) 4日目
<京都郡→実家周辺撮影→源じいの森→京都郡(泊)>
この日は午前中に実家周辺撮影を行なう予定であった。
周辺とは言っても、広い町内を車で回り、要所要所で折りたたみ自転車で巡り、撮影するのである。
それなりに時間はかかることが予想されたため、朝6時くらいに出て昼までに戻るつもりだった。
ところが、ヘナチョコを病院に連れて行くということになったため、それは翌日にする。
ヘナチョコを車に乗せて行橋市にある「夜間・休日病院」へ向かった。我輩の母親と豚児も同乗した。
行橋市は我輩が子供の頃と比べて新しい道や建物が出来ており、最初は道が分かりづらかった。しかしカーナビゲーション画面を頼りに、何とか辿り付くことが出来た。
ヘナチョコの体調はそれほど悪くはなかったが、帰りのフェリーで再び具合が悪くなっても困るため、念のために受診して薬をもらっておこうということである。
受診後、行橋駅裏にあるショッピングセンター「ゆめタウン」に寄り、昼食用の惣菜一式を買い込んで実家に戻った。
このあたりも我輩の子供の頃とは全く変わっており、今回、新しい道を覚える良い機会となった。
実家に戻り、昼食を摂って休んでいた。
午後からは、2年前にも行った「源じいの森」で温泉でも浸かりながらゆっくりする予定になっていたため、しばらくしたらまた車で出発である。
ここでふと、我輩の父親に電話を入れてみた。
帰省前に電話を入れていたのだが、その時は「8月16日に寄る」という話をしている。とりあえずは九州入りしたことを報告しておこう。
電話をすると、父親は少し考えた後、「今、来んか?」と言った。
実は、16日は都合が微妙な状態となり、今のほうが確実とのことだった。
我輩も時計を見て少し考えた。もう14時。
源じいの森は別の日にするか。
主目的は、父親に会うことよりも、父方の祖母に会うことである。
豚児にとってはもう一人の曾バアちゃん。2年前に会ったが、豚児はもう忘れているだろう。
ただ、祖母の家は知らないため、父親を途中で乗せて道案内させる。
色々と複雑な事情があるため、母親及び実家のバアちゃんが、父親と会わないようにしなければならない。
とりあえず豚児とヘナチョコを車に乗せて父親の家に行った。
ところが、父親の住んでいる家は我輩が生まれた県営の長屋ではなく、新しく建ったアパートだった。父親の話によると、県営の長屋は先日取り壊され、住人は新しいアパートへ移ったとのこと。
県営の長屋も実家周辺撮影の撮影ポイントに入っていただけに、非常に残念であった・・・。
祖母の家では、4匹の犬が出迎えた。
豚児の写真やビデオを渡して見せたり、豚児を膝の上に座らせてやったりして過ごした。
当然ながら、集合写真も撮った。
撮影直後、露出計代わりの「Nikon D200」のISO設定が800になっていたことに気付き、急遽、撮影のやり直しをした。
どうも設定絞り値が大きいと思ったのだが、そういうことだったか。気付いて良かった。
父親を送って帰る途中、我輩の子供の頃の話を聞いた。
「おまえが二歳の頃、死にかけたことがあったなぁ。」
その話は以前から聞いていたので驚きはしなかった。
「おむつが赤く染まったから、食べさせたトマトがそのまま出てきたかと思ったが、あまりに激しく泣くもんで、近所の病院に連れて行っておむつを見せたんよのう。そしたら先生の顔色がサーっと変わってな、北九州の大きな病院に連れて行けって言われて急いで党(※)の車を借りて病院に連れてったんじゃ。そしたら腸重積(ちょうじゅうせき)やったんじゃ。」
(※党=当時父親は某政党に属して選挙運動などの政治活動を行なっていた)
我輩は父親を送った後、母親に連絡を入れた。
時間は17時半。
母親は、「今からでも源じいの森に行こう」と言う。実家に戻ってもあまりちゃんとした食事が用意出来ないから、源じいの森で食事をしようとのこと。
我輩は、豚児とヘナチョコを乗せたまま、我輩の母親を途中で拾って源じいの森を目指した。
源じいの森は山道を走った先にあり、着いた頃はもう夕方の雰囲気であった。
2年前はタクシーすら無く鉄道だけが頼りだったが、今回は車で来たため時刻表など気にすることなく気が楽である。
家族風呂が空いているか訊いてみたが、空いていなかった。大浴場に分かれて入るしかない。
まずは夕食を食べるためレストランに入った。
レストラン内での撮影というのは、文字通り腰を据えてジックリと行なえるためやり易い。多少は他の客の目などが気になるが、デカいカメラを大げさに構えて撮影しているうちに気にならなくなる。
食後、大広間でくつろいだ。
とは言っても閉館時間まで1時間半くらいになってしまったので、まずは我輩1人が男湯に入った。本当は豚児を連れて行きたかったのだが、母親も孫と入りたいだろうと考えた。
その後、我輩以外の全員が女湯に入った。
我輩は荷物番である。
ラムネを飲みながらゴロ寝をして過ごした。
テレビでは、関東地方の大停電のニュースが流れていた。クレーン船が川にかかる送電線を切断してしまったとのこと。最近は信じられないような事故が多いなとボンヤリ思った。
さて、帰りはどうやって帰ろう。来た道は覚えていないから、帰りもまたカーナビゲーションのお世話になるだろうが、夜の山道は非常に神経が疲れる・・・。
車での移動は、色々な制約に縛られることが無いから確かに便利には違いない。しかし自分で運転するということを考えると、やはり心からリラックス出来ない気がする。こういうのは、誰かが運転する車に同乗するのが一番だ。
ちなみに実家に帰り着いたのは22時であった。
●8月15日(火) 5日目
<京都郡→到津の森公園(小倉)→苅田(泊)>
この日は、「到津(いとうづ)の森公園」へ行く予定である。
ここは以前、西鉄が経営する「到津(いとうづ)遊園」だったのだが、経営状況が良くなかったためか、閉園することになってしまった。
しかし市民の間で存続の要望が集まったため、北九州市が引き継ぐことになり2002年にリニューアルオープンしたのである。
我輩もこの場所には子供の頃に何度も行った。
子供会や学校の遠足、そして家族での行楽には欠かせない場所だった。そういう意味で、ずっとあるものだと錯覚していた面もある。しかし存続の危機に瀕した時にようやくそうではないことに気付いた。
ただそうは言っても、我輩は関東に居住しているため、なかなかすぐに撮影することは出来ずに焦ったものだ。そして盆休みにようやく帰省し、35mmカメラで撮影したのである。それらの写真は全てがネガカラーであった・・・。
さて、家を出発する前に、昨日撮れなかった自宅周辺写真をごく簡単に撮ることにした。
自転車だけで一時間以内で回れる範囲を撮影してくるだけである。
天気は良く、発色はキレイに出ると予想された。ただそれだけに暑さは格別で、ちょっとでも自転車を停めると汗が流れてくる。
我輩が生まれた県営住宅のほうはもう無くなっていることが判っていたが、諦めきれずに跡地に建てられた建物を撮影してみた。
撮影後、実家に戻り、豚児とヘナチョコと母親を乗せて北九州市の到津を目指して車を発進させた。
この日もかなり日差しが強く、暑かった。
「到津の森公園」に到着して車を停めたものの、エンジンを切ると途端に車内が熱くなるのを感ずる。
豚児は我輩の母親によくなついており、「九州のバアちゃん」と呼んで、いつでも手を繋いで歩いていた。
何でもわがままを聞いてくれるから、自分の家来にしたつもりだろうか。
園内を少し回った後、昼が近かったため軽食コーナーに入り、カレーライスやうどんなどを注文して席に座った。
その時、我輩の携帯電話が鳴った。東京03から始まる見慣れぬ電話番号からであった。どこからだ?
電話を取ってみると、フェリー会社からだった。
「台風の影響により、16日、17日と欠航になります。」
まさかとは思ったが、帰りのフェリーが無くなってしまった。
どうやって関東まで帰れば良い?
高速道路をひた走って日本を横断するか? バカな、1,000km以上はあるぞ・・・。
日本海回りのフェリーを押さえるか? いや、今から3人分も取れるはずが無いし、仮に取れたとしても台風の影響は少なからずあるはず。代替案にはならぬ・・・。
ならば新幹線か? しかし、車を置いて帰るわけにいくまい・・・。
では帰りの日程をズラすか? だが、遅くなれば遅くなるほど疲労は溜まる。早く帰れなければ、休み明けがツライぞ・・・。
その後、気分が少し落ち込んだまま、「到津の森公園」を巡って動物たちと触れ合い、乗り物に乗って過ごした。
とりあえず気持ちを切り替えようとするのだが、頭の片隅にはフェリー欠航のことが常にあるという状態だった。
それにしてもこの日もかなり暑かったため、15時には「到津の森公園」を後にした。
「小倉井筒屋」や「紫川水環境館」に寄り、そのまま「紫江's」の中華レストランで早めの夕食を摂り、小倉に住む母親と別れて我々3人は苅田のビジネスホテルにチェックインした。
このビジネスホテルでもインターネットは接続可能で、我輩はそこから情報収集をしてフェリーの代替案を検討していた。
しばらく考え悩んでいたが、豚児やヘナチョコが就寝した後に、ようやく一つの決断をした・・・。
●8月16日(水) 6日目
<苅田→親戚巡り→京都郡(泊)>
この日は親戚巡りの予定であるが、2日前に父方の祖母には会ったため、叔母の家への訪問だけとなる。
叔母の家では、同じように里帰りしている叔母の娘と孫も居る。去年と同じように豚児と遊ばせることにした。
叔母の家では叔母の娘・息子、そして孫2人と賑やかだった。
昼食をご馳走になった後、しばらくみんなでシャボン玉を作って遊んでいたが、豚児が時々激しい咳をしたりするので、念のために病院へ連れて行くことになった。
それ以外は元気な様子で熱も無いようだったが、もうすぐ関東へ帰ることになるため、やはり不安材料があると困る。
ヘナチョコも少し休ませておくため、我輩と母親で豚児を病院に連れて行った。
病院では、肺には特に雑音は聞こえず、喉のほうが少し腫れていると診断された。
薬を処方され、そのまま叔母の家に戻った。
「咳が出て困ったねえ、どうやって帰る?」
我輩の母親は心配そうに豚児を撫でた。
参ったな・・・。
実は、明日は早くから車で出て、高速道路をひた走り、滋賀県の彦根市で一泊する予定だったのだ。ホテルも予約してある。
実家から彦根市までの道のりは670km。それなりの距離はあるが、蔵王行きで720kmくらいは1日で走った実績があるため、まあ何とかなるだろう。
残りはその次の日に450kmを走り抜く。
ただ、豚児の体力が問題。何しろ、蔵王行きでは片道5時間だったからな・・・。
さて、叔母の家に戻った後、皆で記念写真を撮り、そして実家に戻ろうと思った。
しかし実家には何も無いため、どこかで夕食を食べて帰ろうかということになった。しかし、この盆休みの時期に開いているところは少ない。田舎であるから尚更。
そこで叔母が「近くに、こじゃれた店があるからそこ行けば」と言い、店に電話を入れてくれた。
幸いなことに店は営業しているとのことで、18時半に予約を入れてもらった。
予約の時間まで2時間ほどあるため、我輩が子供の頃に遊んだ川に行ってみることにした。
車で15分くらいの場所で、その周辺はあまり昔と変わっていなかった。
川には小魚が泳いでいるのが見え、空にはイトトンボやオニヤンマなどが飛び、民家の畑にはゴーヤやキウイなどが実っていた。
夏休みの雰囲気は満点だった。
夕食の時間、再び車で叔母の家に行き、車を停めさせてもらって予約を入れていた店に歩いて行った。
雨が少しパラついている。今のところ無風だが、もしかしたら台風の影響か・・・?
店では個室に通された。
コース料理のため、1品ずつ料理が出てくる。見たことも無い、味わったことも無いような料理が出てきた。
何気なくメニューを見ると、一人あたりの料金が5千円近くとのこと。
豚児の分は皆で分けて与えているため、我輩とヘナチョコと母親で3人分。つまり、1万5千円もかかるらしい。
結局このコース料理、全部の料理が出てきて食べ終えるまでに2時間半もかかってしまった。実家に帰り着いたのは、もう21時になっていた。
豚児は見た目は元気だが、寝るのがいつもより遅い日が続くのが心配である・・・。
●8月17日(木) 7日目
<京都郡→彦根市(泊)>
日付が変わって午前0時過ぎ、豚児が激しく咳をした。
目は覚めていないようだが、熱を測ってみると、37度5分あった。
とりあえず、背中をさすって寝かせた・・・。
今度は午前3時、今度はもっと激しい咳で豚児が目を覚ました。息が苦しいのか、力無く泣いている。
熱を測ると、39度近かった。
「彦根行きは、とりあえず延期だ。」
我輩はすぐにシャツとズボンを着た。
これまでどんなに熱が出ても元気だった豚児が、高熱と咳で泣いている。こんな姿を見たのは初めてだった。急遽、病院に連れて行くことにした。
真っ暗な中、我輩とヘナチョコ、そして我輩の母親は豚児を抱いて車に乗せ、3日前にヘナチョコを連れて行った行橋市の夜間病院を目指した。
夜ではあったが、一度通った道であるから迷うことなく到着。
しかし小児科の医師は23時までしかいないという。
この時間でも対応可能な病院と言えば、ここから更に20km先の北九州総合病院しか無いとのこと。
我輩は豚児を抱きかかえて車に戻り、ジュニアシートに座らせた。
「もうちょっと待ってな、小倉の病院行くからな。」
豚児はコクリと頷いた。
苅田のあたりからバイパスに入り、少し速度を上げた。
真っ暗な車内にしばらく会話は無かったが、ふと思い出して、助手席の母親に話し掛けた。
「俺が子供の頃、2歳頃っち言うたっけな、死にかけて病院まで車を走らせたって聞いたんやけど。」
「ああ、そうそう、途中でパトカーに止められたねー。」
「パトカーに?」
「そう、スピードかなり出ちょったんやろ。」
「で、どうしたん?」
「おまわりさんに事情を話したら、パトカーで先導してくれてね、病院まで行ったんよ。」
「それは初めて聞いた話やな・・・。」
やがて総合病院に到着し、夜間診察の受付へ急いだ。
待合室には数人の患者が座っていたが、意外にも受診用紙に記入した直後に診察室に通された。
高熱は問題無さそうだったが、一応、解熱剤と咳止めを処方してくれるとのこと。
関東に車で戻ることについて医師に意見を伺ったが、早めに帰ってかかりつけの病院に行くことも一つの方法とのことだった。
最後に10分ほど蒸気吸入器で蒸気を吸わせた後、帰路についた。
実家に帰り着いたのは、早朝5時だった。
白々と夜が明けようとしていた。
次に目が覚めたのは、8時過ぎだった。
豚児の様子も落ち着いており、元気もあるように見えた。
朝食を食べ、荷物の整理をした。
色々考えたが、この日は予定通り車で出発することにした。もし途中で辛そうだったら、旅費はかさむが豚児とヘナチョコは新幹線で帰らせようと思う。ただ、新幹線は空席が無ければ逆にツラくなるため、見極めが肝要。
帰りは土産などがあるため、少し荷物が多くなっている。
折りたたみ自転車がジャマに思うため、これは実家に置いて行くことにした。パンクレス加工もしてあるため、放置状態でも大丈夫だろう。フレームもアルミ製であるから、少なくともフレームの錆びは心配しなくても良い。
これによって荷物が容積はもちろん重量も10kgほど軽くなった。
9時過ぎに実家を出た。
まず、母親も乗せて苅田駅まで送って行った。時間があれば小倉駅まで送って行けたのだろうが、今回は仕方無い。
豚児は「九州のばあちゃん!」と窓越しに手を振った。母親も「気を付けてね〜」と手を振り返した。
我輩は、そこがタクシー乗り場なのですぐに車を発進させた。
高速道路に乗ったのは10時近くになっており、関門海峡を渡って少し走った後、「下松サービスエリア」で昼食を摂った。
しばらく休憩した後、また本線に戻った。
台風のせいか、横風があるように感じる。
所々、激しい雨が叩きつけるかのように降り出したりするのでビックリするが、10分もするとカラリと晴れる。これもまた台風のせいか。
また、このあたりの高速道路は、道が混んでいないにも関わらず、追い越し車線を延々と走る車が多いのも気になった。
これまで関東近辺の高速道路しか走ったことは無かったが、大抵は追い越し車線で後ろから近付くと道を譲ってくれるものなのだが・・・。
恐らく後ろをあまり見ないドライバーが多いのであろう。
その証拠に、我輩が追い越し車線で近付いていても、走行車線から割り込んでくる車が非常に多い。
それをやられると、こちらはブレーキを踏んで減速せざるを得ない。そうなると非力な中古車ゆえに再加速に時間がかかり、後続の車との車間距離が狭まってしまうのだ。これが上り坂であれば、アクセルをベタ踏みしてキックダウンしようとも全く加速しない。
ブレーキを踏ませるような割り込みは止めて欲しいものだ。
15時頃、「福山サービスエリア」で小休止。
まだ、本日の半分の距離・・・。
17時頃、「白鳥パーキングエリア」で小休止。
うーむ、まだまだあるな・・・。
日も暮れて夜の景色になった頃、ようやく大阪府に入っることが出来た。
ところが、分岐が多いためか渋滞にハマってしまった。
恐らく、この日の疲労の半分は大阪で発生したものだろうと思う。逃げ場の無い高速道路での渋滞は本当に疲れる。
そこを抜けると再び道はスムーズに流れ始めた。しかし大型トラックが多いのには参った。しかもリミッターなど付いていないような速度で追い上げてくる。確実に140kmは出ているだろうと思われた。
結局、彦根市のホテルに着いたのは、21時近かった。
そこからファミリーレストランに行って夕食を食べ、そしてホテルで入浴した後に寝たのだから、この日の豚児も寝るのが遅くなってしまった・・・。
●8月18日(金) 8日目
<彦根市→自宅>
高速道路の運転では、一瞬のことが重大事故を引き起こす。
高速走行中であるから、ちょっと視線を逸らしたりすると、その間に数十メートルも進んでしまうからだ。
だから、走行中は全く休めない目が最も疲れることになる。
昨日の運転ではおよそ9時間運転していた。これまでの最長記録であった。
蔵王行きでの往復よりは距離と時間は短いのだが、やはり往復と片道では疲労度が違う。片道では疲労が連続してしまう。
幸いなことに、一晩寝ると疲れは消えた。
残りは450kmであるから、何の心配も無くなった。
さて、豚児のほうはと言うと・・・。
後部座席を振り返ると、非常に元気な様子。
新幹線で帰らせるかを考えたが、まあ大丈夫だろうということで、そのまま2人を乗せて行くことにした。
9時少し前に出発。
天気が良く、ドライブ日和と言ったところか。
途中でどこかに寄って観光でもしようかと思ったが、事前調査もしておらず行き当たりばったりになるため、思わぬトラブルを引き込みそうに思い、やめておいた。
10時頃、「美合パーキングエリア」で小休止。
あと340kmか・・・。
12時頃、「牧之原サービスエリア」で昼食と昼休み。
残り240km・・・。
14時頃、「愛鷹パーキングエリア」で小休止。
ラストスパート150km・・・。
16時頃、ようやく首都高速道路に到達した。
「九州から運転して、ようやくここまで来たか」と感慨深かった。
行きで渋滞していた地点もスムーズに通過した。
自宅に帰り着いたのは、17時近かった。
1週間も家を空けていたのだが、特に変わった様子も無い。冷蔵庫の中を見てみたが、関東で起こった大停電の影響は見付からなかった。この地域では停電にならなかった・・・?
帰宅直後、我輩は喉に違和感を感じ、翌日には熱が出た。
完全に、豚児とヘナチョコの風邪が移ったのである。
この後、我輩は風邪で1週間ほど苦しむことになった。これまで豚児とヘナチョコの容態を見てきただけに、自分がこれから辿るであろう症状がいつ襲ってくるか脅えながら・・・。
●まとめ
<移動について>
やはり何と言っても、フェリーは予定がひっくり返る危険性を孕んでいる。それは去年も書いたことだが、今年はそれを身を以って体験することになった。
今回のフェリーについては車の走行距離を短くしようと考えたつもりだったが、帰りのフェリー欠航により、全行程で1608kmと、逆に去年より489kmも走行距離が増えてしまった。ガソリンも3回も給油している。
こういった場合、経済的な面だけでなく、安全性の面でも問題である。
今後はフェリーの利用については慎重にならざるを得ない。
また車については、高速道路を走ることを主目的とするならば、それなりに馬力のあるものが欲しいと思う。
特に上り坂での加速は、我輩の車(4気筒2000cc)では絶望的。
だがそれでも、さすがにアウトバーンのある国の乗用車だけあって、高速走行時の安定性は良いと感ずる。運転初心者であっても、不安無く長距離を走ることが出来たのだから(言うまでも無いが、不安と疲労は別物である)。
一時は、もう少し金を上乗せして新車の軽自動車を買おうかとも思ったこともあったが、中古車ではあるがこの車にして良かったと思っている。全くトラブルも無く、最後まで走り切ってくれた。
ちなみに中古価格88万円。最近の軽自動車のほうが断然高い。
<BRONICA SQ-Ai(銀塩)>
今回、120フィルムは10本(66判で120枚)撮影し、採用枚数は51枚と比較的少なかった。
これは、当初予定していた実家周辺撮影が行なわれなかったことによる。特に、我輩が生まれて幼少期を過ごした県営住宅が失われたことにより、撮影意欲を削がれたことが大きく影響している。
湯布院・久重での撮影が無かったためもあるが、運転時間もそれなりに長くなりそうであるから、仮に湯布院・久重へ行ったとしても撮影時間はそれほど無かっただろう。
またストロボ撮影についてだが、写真を現像してみると、ストロボ直照写真では、画面の上下が暗くなっていた。明らかに照射角不足である。
確かに、Nikon製ストロボ「SB-600」の照射角はワイドアダプター無しで24mm(35mm判)までカバーしているわけだが、実はカバーしているのは左右方向のみで、上下には狭かったのである。
つまり、「BRONICA SQ-Ai」の正方形画面は想定外ということか。
一方、SUNPAK製ストロボ「B3000S」は上下左右に自在に動かせるため、上下の照射角はNikonほど狭くない。
それにしても、行きの船の中でストロボが無かったために中判写真が撮れなかったのは残念。帰りのフェリーは欠航となり、結局は撮影のチャンスを逃してしまった。
<Nikon D200(デジタル)>
D200は、気軽に撮影するサブカメラの役割を与えている。
今回の帰省での撮影総数は、1,000枚を少し超えていた。これは、一見多いようにも思えるが、1日当たりに換算すると130枚程度である。デジタルカメラにしては膨大と言うほどでも無い。
ただそうは言っても、絶対量としての1,000枚はやはり整理の面では大変であり、全てのカットについてレタッチすることは不可能。利用する画像に対して、その都度レタッチを施すのが現実的であろうかと思う。
またD200は、露出計用途としての役割もあった。
今回は事前テストをする間も無く運用したのだが、結果としては、液晶画面が屋外での確認が難しく、多少見誤ったものがあった。しかしおおむね良好である。経験さえ積めば、百発百中になることが予想される。
ただ、簡単にISO感度を変更可能なことにより、感度を変更したことを忘れて露出計として使ってしまうことには注意が必要。
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