中学生の頃、我輩は科学部に所属しており、部長のオカチンやクラッシャージョウなどと一緒に天体撮影に励んでいた。
ただ、肉眼で滑らかに見えていた土星や火星も、写真に撮るとザラザラしており、今ひとつ満足感が薄かった。
そんな時、オカチンが興味深いネタを仕入れてきた。
「天体写真には、複数のネガを重ねて1枚の写真を得るコンポジットという手法がある。」
当時、科学部は理科室を拠点としており、理科準備室には写真現像室もあった。
我々はその現像室にて、土星を撮影した2枚のネガを重ね合わせて1枚の印画紙に焼き込んだ。結果は微妙だった。
重ねる枚数がもっと多ければ良かったのだろうが・・・。
細かい粒子で構成される写真画像は、粒子の大きさに応じた粗さがある。通常はその粒子よりも小さくは解像出来ないのであるが、同じものを写した複数のネガを重ねることによって粒子の粗れを均(なら)して目立たなくすることが出来る。
これが、「コンポジット」である。
デジタル技術が進歩した現在では、200枚もの画像のコンポジットもパソコン上で処理可能である。フィルムで同じ事をやろうとすれば、200枚ものフィルムの厚さのため印画紙面上にピントが合うまい。
良い時代になったものだ。
ところで最近は、デジタルカメラの機能として「美肌モード」などと呼ばれるモードがあるようだ。ピクセルを平均化して滑らかな階調を得ようとするものである。
これは、コンポジットのような複数の画像を1枚に合成するものではなく、1枚の画像を対象にして手を加える手法である。それはカメラ内レタッチとも言える。
その他にも「美白モード」や「日焼けモード」などもあるそうで、それらが単なるフィルター代わりとして捉えられているうちは良いのだが、「美肌モード」などは一般人にとってわざわざ「美肌モードにしない」という選択肢は無かろうと思う。そう考えると、いずれ将来的には美肌モードはキャンセルしたくとも出来ないような"入ってて当たり前"の組込み機能となることもあり得る。
ただこの場合、画像の粗れがCCDのノイズに由来するものか、あるいは本当に肌が荒れているせいなのかを区別せず、ただ単にキレイに見せたいからということで闇雲に補正を加えているのであれば問題である。
コンポジットの手法であれば、荒れた肌を写した写真であれば、画像を重ねれば重ねるほどに肌の荒れが鮮明になるだろう。粗さが消えるのは、あくまでフィルムの粒子のほうである。
「美肌モード」は、"表面上キレイな一般ウケする写真があればそれで良い"という考えが見え隠れしている。真実を写そうとする姿勢など感じ取れない。
これは余談と言えるかも知れないが、我輩所有のデジタルカメラのうち「Nikon COOLPIX5400」はISO50の設定でISO100に相当する。正確でなくとも感度が高めであれば満足するだろうという考えなのかは分からないが、写真を趣味とする者にとってみれば、ISO50はISO50の感度でなければならない。
競争の激しいデジタルカメラ市場では、常に消費者の多数決的な要求に振り回される。
過去には画素数至上主義が蔓延し、その他の機能は全く無視されてきた。それがやっと落ち着いたかと思うと、今度は画像処理の競争が始まるのだろうか?
「この世で一番美しいのは誰?」とお姫様がカメラに問いかけたとしたら、最もお世辞の上手いカメラがお姫様のお気に入りとなるだろう。
見た目通りに写す正直なカメラは迫害され、いずれ姿を消す。
これはもはや、ブラック・ジョークの領域。
しかし、同じく競争の果てにゲテモノに変化(へんげ)した携帯電話の姿を見れば、あながちジョークとも言えないかも知れない。デジタルカメラもいずれはカメラとは違う別な"何か"に変化するのだろうか。
−国内の風景をヨーロッパ調に写すカメラ−
−狭いユニットバスを優雅なプールに写すカメラ−
−質素な食事を派手な御馳走に写すカメラ−
−自宅にいながらにしてどこでも写せるカメラ−
−被写体が無くても自由に創造して写せるカメラ−
・・・
鳥に進化した恐竜が消え去ったように、カメラもいずれは別な物へと変化して消え去るだろう。
それはカメラから発展したがゆえに、カメラを消し去るのだ。
そこには、普通のカメラも何もない、ただ、望んだ映像を自由に表示させる装置があるのみ。
まさに、ブラック・ジョーク。
(参考
雑文414「ブラック・ジョーク」)