雑文497「鬼の目にも涙」でも書いたが、我輩は豚児が生まれる半年前くらいから豚児に関する日記をつけている。
そして、豚児が産まれた瞬間から豚児の写真をリバーサルフィルムで撮り続けている。
たまにその日記や写真を見返してみると、「こんなことがあったのか」と改めて驚くことがある。
日常的な出来事については、記憶に残らないことが多いためであろう。
しかし記憶に残らない日常的な出来事であっても、それは実際に自分たちが生きてきた時間である。それを日記や写真で取り戻した時には、それなりに特別な想いがする。
いつか豚児がその日記と写真を見る機会があるとしたら、やはり同じような気持ちになるのであろうか。
ところで、写真コンクールなどで子供を撮った写真に対して「子供の目線で撮れ」などというアドバイスが見受けられるが、目線の話にこだわるのであれば、親が撮るのであるから親の目線で撮るべきだと我輩は断言したい。
「子供の目線」という言葉の中には「アングル(アイレベル)を下げる」という意味が含まれている。なるほど、そのようにすれば、背の低い子供を見下ろすような"下すぼまりの写真"を防ぎ、自然な描写となって都合が良い。
だがそういう意味であるにせよ、「子供の目線で撮れ」というアドバイスは、「親の目線」を否定しているようにも聞こえて印象が良くない。
親の目線からの写真があれば、子供が成長して自分の写真を見る時、「親から見ると幼い自分はこのように見えていたのか」と感ずることが出来る。
アングルだけでなく、どういう場面でシャッターを切ったのか、どんなところを写真として残したかったのかということを親の目線で伝えることは重要である。
我輩は、写真で豚児とその周囲を親の目線で記録し、日記でそれらを補間している。
親がどういう目で自分を見ていたのか。それは、場面を淡々と述べた箇所にも読み取れるはずである。その場面を撮影し書き留めたという行動。そこには親の目線が存在する。
もし、我輩が事故や病気で早めに死ぬことがあるとしても、今まで撮ってきた写真や日記によって親である我輩の目線を伝えることが出来るはず。
もちろん、親が長生きした場合でも、当時記録された写真や日記の価値が失われることは無い。
豚児がいつか子供を持つ親となった時、自分の子供を見る目に既視感を持つとすれば、当時の我輩の気持ちを垣間見てくれるだろうか。
もちろんその時には、我輩は祖父の目線で孫の写真を撮っているのだろう。