[495] 2004年06月22日(火)
「理屈」
以前、某運動公園にて、豚児が1.7メートルの高さからコンクリートの床に転落したことがあった。
我輩はその場には居なかったのだが、急いで病院へ連れて行き診察を受け、幸いなことに額にアザを作っただけで何とも無かったようだ。悪運の強さは我輩に似るか。
その時豚児と一緒に居たヘナチョコ妻によると、運動公園で歩いている豚児の姿をビデオ撮影していたが、物陰に隠れてしまい、急いで豚児の居るはずの場所へ行ってみると、そこには下に降りる階段の踊り場があり、1.7メートル下の踊り場に豚児が倒れていたという。
この階段はヘナチョコから見て死角であり、その瞬間までヘナチョコの頭の中には階段は存在しなかったのである。
しかしいくら認識外のものであっても、現実には階段は存在した。「ここからは見えなかった」などというのは人間側の事情であり理屈である。それを主張したところで現実世界が変わるわけではない。
理屈では存在しないはずのものが現実には存在した。
また、我輩の自宅アパートには狭いベランダがある。
ベランダには時々豚児を出して遊ばせたりする。しかしそれは、大人の目がある時だけに限られる。
一度、ヘナチョコが「ベランダは危ないものは何も無いのに、なぜ一人で遊ばせてはいけないのか?」と訊いた。
我輩は、「何が起こるか分からないから。」と答えた。
するとヘナチョコは、「特に危ないものも無いし、手摺に囲まれてるので落ちる心配も無い。」などと言う。
確かにヘナチョコの理屈は理解出来る。
しかしそれはあくまで人間の認識であり、実際には隠れた危険が潜んでいるかも知れない。我輩は、暴れん坊将軍の豚児をベランダに放っておくということについて、直感的に危険を感じた。エアコンの室外機が2台積んであるのも気になる。
実際に何かがあってからでは遅い。その時になって「あ、こんな事故もあるんだねえ。」などとノンキなことを言うつもりか。
現代人は、全てを理屈で考える癖がある。その結果、「あるはずのないもの」、「起こるはずのないこと」という不可解な概念が生まれる。現実と理屈との整合性が取れないため、そのように表現せざるを得ない。
不完全な存在である人間がいくら考えても及ばぬことは現実世界には無数にある。統一場理論のように、宇宙の現象全てが理屈で説明が付くような時代であればともかく、今はまだ発達途上の21世紀である。
人間は、自分が無知であることを知るべきである。
ヘナチョコは、「例えばどんな危険があるのか」と我輩に問うた。
そんなことまで知るか。直感的に危険だと感じたまで。それで十分だろう? 一例を挙げられなければ、それはすなわち危険が存在しないということなのか? 自分の認知外の危険が結果的に運動公園で豚児を転落させた。その時の苦い経験を活かせ。
運動公園の事件では、確かに転落直前までは理屈に合った行動だったろう。しかし神の目でその様子を見たならば、非常に危ない場面であったのだ。
しかし結局、ベランダでの危険な場面の一例を無理矢理考えて提示せねばならなかった。そうしなければ理屈ばかりの現代人を納得させられなかった。
自分の認知を超えて危険を避けるには、経験と勘を使うしか無い。それは動物が持つ基本的な感覚である。
なぜならば、動物には理屈は無い。しかしそれでも、35億年もの長い時間を生き抜き命を繋げてきた。だからこそ、我々人類がここに存在する。
全知全能ではない我々が理屈に溺れるのはまだまだ早い。人間というのは半分が動物なのだ。経験と勘無くして結論は出せない。
さて、非常に長い前置きだったが、ここからが本題。
デジタル写真は、銀塩写真に比較して歴史が非常に浅いだけに実証が出来ない面がかなり多く、理屈でしか話が出来ないことが多い。その中でも幾つか胡散臭い話がまかり通っている。
(例1)デジタルカメラの画質は近いうちに銀塩写真を越える。
(例2)デジタルデータは劣化が無く長期保存に耐えられる。
こういった話には、もっともらしい理屈がくっついているのであるが、いくら胡散臭いとは言ってもそれを覆すのは容易ではない。
現状のデータや定説を基にして矛盾無く練り上げているのであれば、一応はその理屈は正しいということになる。
しかし事実はそうなのか?
音楽CDを例に出すと、当初は「非接触の光媒体であるために物理的寿命が半永久的である」とされていた。しかし現在では、20〜30年の寿命とされている。蒸着アルミが腐食を起こす可能性が出てきたのだという。
当時は蒸着アルミの腐食問題など認知外であった。そのため、半永久寿命の理屈は当時としては正しいものであった。
事実とは異なるが正しい理屈。理屈とは、そういうものである。
考えてみれば、人間の作る物で半永久的なものなど存在するはずがない。どう説明されようが信じられぬ。それは理屈ではなく、経験と勘に基づく直感だ。
結果として、その直感が正しかったことになる。まあ、当然と言えば当然。
理屈はあくまで人間の理屈。真実かどうかということとは関係無い。知らないことばかりの世の中では、完璧な理屈など理屈上あり得ない。
実は我輩は20代の若い頃、「人間、経験などは重要ではなくロジックが重要である」と考えていた。経験が豊富なはずの年輩者でも愚か者は多い。そのことが我輩の考えを裏付けていると思った。
しかし今は、それが誤りであるということを知っている。経験無くば正しい結論はまず出ない。
経験や知識を蓄えた上で、それを基に背後にある真理を見抜くことが出来れば、思い込みとも言えるような若者の理屈よりも真実に近付くことは間違いない。
その結論もまた、我輩の直感に基づいている。
やはり人間として素直に感ずる直感というものは大切にすべき。
直感に目をつぶり、理屈だけで物事を考えるヤツらの意見やアドバイスなどは、全く当てにならぬ。
(2005.10.08追記)
現在、アスベスト(石綿−せきめん・いしわた)による中皮腫や肺ガンが問題になっており、テレビでも特集番組が組まれている。今もNHKでアスベストの特番を放映している。
アスベストの危険性については30年くらい前には指摘され始めたようだが、日本ではアスベストと中皮腫との因果関係が証明されないということで対策もあまり本腰ではなかった。その結果、毒性の強い青石綿などは使用禁止となったものの、白石綿だけは今日まで生産され続けている。
結果的には、「有害性が証明されなければすなわち安全である」という理屈のために、これまで多くの患者や死亡者が出続ける事態に陥ったわけである。
これなどまさに、典型的な"理屈と現実の乖離"と言えよう。
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