[423] 2003年05月05日(月)
「行く末」
ゴールデンウィーク明けに携帯電話の新機種が発売されるらしいが、それは100万画素にもなるという。
「携帯電話が100万画素」とは変な表現だが、間違った表現ではない。
これはもちろん、「カメラ付き携帯電話」のことを指しているのだが、現在では単に「ケータイ」と言えばカメラ付きであることを意味する。カメラが内蔵されていない機種であれば、それは特殊な存在であるため、区別するために「カメラ無しケータイ」と書かねばならぬ。
もはや、カメラの付いていない携帯電話を持つのは、ひねくれ者か時代遅れの者しかいない。我輩などは携帯電話そのものを持てぬゆえ、さしずめ化石人というところか。
我輩は今回のゴールデンウィーク中に上野動物園に行ったのだが、そこでは携帯電話で記念撮影する光景が多く見られた。
ヘナチョコ妻が売店に入っている間、携帯電話で撮影する者たちを観察してみたのだが、その数は本当に多い。厳密にカウントしたわけではないが、雰囲気的にはデジタルカメラと携帯電話の割合が6:4という印象だった。
以前も カメラ付き携帯電話の話題について書いたのだが、この時はまだ実感として感じていなかった。だが実際、目の前でこういう風景を目にすれば、デジタルカメラが必要とされなくなる日は来るだろうと確信した。
まだ現時点では、デジタルカメラを使う者が多い。
恐らく、100万画素を超える画質を望む者やパソコンに画像を保存したい者が使っているのだろう。しかし、いずれは携帯電話も画素数を増やし、保存も自由に行え、デジタルカメラに肩を並べることになる。今見る風景は、あくまで瞬間的な姿に過ぎない。
消費者からのニーズさえあれば、競争の激しい携帯電話業界は絶対に動く。逆に言えば、ニーズに応えられぬ企業は死ぬ以外無い。
もちろん、画質はCCD画素数だけに拠(よ)らない。レンズの分解能や画像圧縮アルゴリズムなどはかなり大きな影響を与える。実際、携帯電話会社のサイトへ行って100万画素のサンプル画像を見てみたが、画面サイズが大きいだけで画質が伴っていない。短焦点レンズのパンフォーカスと高圧縮ファイルの組み合わせではこんなものか。
しかしそんなことを気にするのは、写真を趣味とするような一部の特殊な者のみ。一般人はカメラの性能を画素数で見る。それが現実というもの。
かつて、デジタルカメラが普及したのは、その手軽さが受けたためであった。
そのため、デジタルカメラのユーザとして一般人が多く群がった。メーカーは「新たなユーザを掘り起こした、裾野を広げた」などと喜んだが、より手軽なカメラ付き携帯電話が出てくると、途端にユーザが流れ始めた。
結局は、忠誠心の薄い外様大名(とざまだいみょう)の如く、市場の地盤は極めて弱かった。
もっとも、カメラ付き携帯電話が売れてもメーカーはそちらに生産をシフトするだけであり、実質的な影響は無かろう。
だがしかし、デジタルカメラに趣味性を求めた一部の者にとって、デジタルカメラの行く末が携帯電話であるとするならば悲劇と言わざるを得まい。我輩としては、「手軽さを求めてデジタルカメラへ移ったのであるから、もう、とことんまで行け。」と言うほか無い。
まあ最初は、携帯電話を突き出すバカっぽい姿に抵抗があるだろうが、そのうち慣れるから心配するな。
ところで銀塩カメラのほうは、デジタルカメラブームの際にミーハーが抜けてくれたおかげで、市場が大幅に縮小したものの逆にマニア度が高まり地盤が固まった。いずれは現像所も整理・統合され、特に地方の者には不便も多くなろうが、元々 多少の不便さは覚悟の上。何の障害にもなるまい。
我輩も、今回撮影した写真は連休明けの仕上がりと言われた。趣味の写真ゆえ、別段急ぐ気持ちも無い。
デジタルカメラの行く末を案ずるも、結局は他人事。ただ、かつての盟友のことでもある。全く気にならぬというわけでもない。
意地になって携帯電話で画素数を語るだけの趣味に矮小してしまわぬことを祈るばかり。
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