あまり知られていないかも知れないが、漫画家の楳図かずお氏は、実はUFO好きである。
彼は、映画「E.T.」が公開された当時、次のようなコメントをFMラジオのインタビューで残している。
「普通はですね、"宇宙人"って言えば、科学が非常に発達したイメージがあるわけじゃないですか。ところが、あの映画に出てくるE.T.というのは、それほど知能が高そうに見えないんですよねー(笑)。あれって多分、UFOの操縦席で、ただボタンを押すだけの宇宙人なんじゃないかなぁー。」
架空の物語について真面目に考察するのは意味が無いと言えばそれまでだが、しかしこの考察は現実味があるだけに興味深い。
我々地球人は、ある程度の科学文明を築いてきた。
深い海を潜り、高い空を飛び、長大なトンネルを掘り、海に橋を架け、遠距離間で通信し、太陽系外まで探査船を送り出し、核兵器という自滅兵器まで造り出した。
しかし、一人一人の人間がそのような科学文明を持っているかと言えばそうではない。科学文明とは、人類という種が全体として共有する財産である。
人はそれぞれ職を持ち、社会と関わっている。それぞれの職場の進歩が社会全体の進歩に繋がり(いわゆる予定調和)、それが科学文明を支えているのだ。人間一人が、全ての技術や知識を持っているわけではない。
(
雑文260参照)
従って、我々の日常生活の中でも、仕組みも知らずボタンを押すだけの機械が多くある。
冷めた飯を電子レンジで暖めて食べる時、必要なことは電子レンジのボタンを押すことのみ。電子レンジの中にマグネトロンチューブ(真空管の一種)があり、そこから高周波が出て水分子を振動させるという仕組みなど、知っている主婦はほとんどいない。ましてや、マグネトロンがどのように働いて高周波を発生させるかということなど、技術者以外に誰が知っていよう。
だが電子レンジを活用し、あっと驚くような裏技的調理法を編み出す主婦がいるのも事実。機械の構造を知らずとも、使う人間が電子レンジの使い方を熟知し上手に活用出来れば、その機械が道具として活きてくるのである・・・。
さて、今まで雑文で何度も話題にしてきたことだが、カメラやレンズなどの機材にこだわる人間とそうでない人間がいる。
そのことについて、人それぞれ、楽しみもそれぞれであるという主張をした。だが、それではあまりに無責任過ぎる。我輩を含む機材にこだわる者たちが、単に"変人"あるいは"オタク"と呼ばれたままにしておくのも嫌な話だ。
何とか、機材にこだわる者を擁護するための論理的説明は出来ぬものか。そう考え、我輩は今回の雑文を書くに至った。それが以下の内容である。
カメラの場合、写真を撮る者がカメラの仕組みを知っていることは少ない。
ボタンを押すと液晶画面の数字が変わり、露出計の表示が変化する。カメラ内部で何が起こりそのような動きをするのか。写真を撮る者にとって、それは重要ではない。
道具はあくまで道具であり、その仕組みを知ることよりも、上手く使えることのほうが利益をもたらす。
だが、我輩は違う。
ふと手にした道具を、どんな仕組みで動くのか、どうやって造られたのかということを考えてしまう。なぜならば、我輩には好奇心というものがあるからだ。
好奇心に理由など無い。必要があって生じるわけではない。
日常生活に於いて、電子レンジの仕組みを知れば何かの役に立つかと言えば、それはまず無いと言い切れる。「水分を含むものだけを加熱する」とか、「アルミホイルに包まれたものは入れないようにする」など、幾つかの注意点さえ知っていれば済む。わざわざ「水分子が分極しているから」とか、「電磁波は金属で反射する」などという、日常に馴染みの無い原理など知らなくても良い。
電子レンジを上手く使うのは、技術者ではなく主婦なのだ。
同様に、写真を撮る時、カメラやレンズの構造や材質などを知る必要は無い。
電子レンジを上手く使いこなす主婦の如く、カメラをセンス良く使いこなすことが写真を撮る人間のあるべき姿である。
だが、我輩には好奇心がある。
カメラを手にし、この小さなボディの中にはどんなカラクリが仕込まれているのだろうかと考える。
写真を撮るために必要というわけではない知識。だが、我輩の好奇心はそのような区別をせず「知りたいものは知りたい」と我輩の中で騒ぎ出す。その結果、我輩の本棚にはカメラ関係に留まらずありとあらゆる本が溢れた。
特に、講談社ブルーバックスシリーズは素人でも読めるため、今までに何冊か購入した。例えば、コアレスモータやステッピングモータ、そして超音波モータなどはカメラに深く関わる技術であり、「モーターのABC(見城尚志著)」と「モーターを創る(見城尚志・加藤肇著)」は、我輩の好奇心を満たしてくれた。
他にも、オーム社ハンディブックシリーズは、図鑑を眺めていた子供の頃の気持ちと重なる。
もちろんカメラ関連の書籍も、具体的なカメラやレンズの図解を提供してくれる。
現代カメラ新書シリーズは手垢が付くほど何度も読み返したものだ。それはもちろん、勉強のためではない。ただ、好奇心を満たすため。
例えば、レンズ設計の苦労について、興味深く読んだ箇所があった。
昔は、一眼レフ用のレンズの設計には一苦労あったようだ。
ミラーボックスのスペースが必要であるから、バックフォーカスを長く取る必要があった。だが1960年前後のレンズは設計が未熟で、ガウス型標準レンズでは、F1.4などという明るいものは55mmや58mmという少し長めの焦点距離で作らざるをえなかったという。
これを読んだ時、我輩の所有機「KONICA FT-A」の標準レンズ「HEXANON 57mm F1.4」が愛(いと)おしく感じられた。57mmという中途半端な焦点距離には、そういう事情があったのだと、その時初めて知った。
そのレンズを手にすると、本で見たレンズの構成図が見えるようだ。そして同時に、当時の技術者の情熱をレンズを通して感ずる。
そういうふうに機材を眺めると、同じ仕様のカメラやレンズでも、それぞれが唯一無二の存在であることを感ずる。そして、「写真を撮るにはカメラが2〜3台あれば十分だ」などと単純に割り切れなくなる。
(我輩のF3については予備の意味が強いが、それ以外のカメラやレンズはそれぞれに唯一無二の存在。)
カメラの製造には、非常に多くの人間が関わっている。すなわちカメラは、人類の代表的科学技術の一つであると言えよう。
我輩は、そんなカメラのボタンを、ただ押すだけの存在にはなりたくない。我輩の好奇心がそれを許さぬ。このカメラのボタンの下に何があるか。ギアがいくつ噛み合っているのか、力をどんな方向に伝えているのか、他のメーカーとどのような違いがあるのか・・・。そしてそのカラクリを知った時、そんなメカニズムを持つカメラやレンズに対する愛着と、それを作りだした技術者に対する尊敬が生まれる。
当時の技術者たちが夢を以て作りだした仕組みのカメラやレンズ。我輩は手に取り写真を撮る。別のカメラで同じ写真が得られるとしても、我輩には同じとは思えぬ。
精密に切削されたカムやギア、何度も練り上げられたソフトウェア、限られたスペースに実装された電子回路、時間をかけて磨かれた非球面レンズ、限界まで突き詰められたレンズ設計・・・。
我輩は、そんな魅力的なカメラやレンズを感ずることの出来る側にいる。そして、地球の技術文明を誇りに思う。
我輩は、ただボタンを押すだけのE.T.ではない。