写真は、ストロボもうまく調光し写り自体は良かった。欲を言えば、雑誌Newtonに掲載された魚眼写真のように、可能な限り視野を凝縮させてフィルムに焼き込みたかった。
我輩が初めて、魚眼レンズを意識した瞬間だった。
また、それと同じくらいの時期だったと思うが、我輩はしばしば友人と学校の校庭や刈り取り後の田んぼの中で星の観測をしていた。満天の星空に自分の存在の小ささを、寒さに足踏みをしながら感じた。
そのあまりに広い視野に広がる夜空の星は、確かに宇宙の半分が見えている。その様子を写真に捉えることは不可能。なぜならば、当時の我輩のカメラとレンズでは、その一部しか捉えられない。
ふと、幼い頃に図鑑で見た雲量測定写真が甦った。
我輩が二番目に魚眼レンズを意識した瞬間だった。
その場の空気を死角無く切り取る魚眼写真。
映像は歪んではいるが、我輩の脳内で展開され自分の周囲を包み込む。
もし、目に見えた形だけにこだわるならば、例えばピカソの絵など子供の落書きにしか見えまい。キャンバスという平面に、立体すら越えた人間の深い心を投影するには、その心を平面に展開し描き込む以外無い。それがピカソの絵画であり、理解する者を選ぶ理由である。
(ピカソの話は例えであり、我輩がピカソの絵を一番理解しているという話ではない。)
魚眼レンズのディフォルメは、何も、芸術を気取った描写では決して無い。あくまで、180度もの超視野を平面上で展開するための歪みである。我輩はその歪みに、平面では表現し切れない広い現実視野を体感する。現実視野の情報量を無理矢理詰め込んだ痕跡、それが、魚眼レンズの歪みであるのだ。
魚眼写真を見れば、そこにある風景が我輩を包み込む。あたかも、自分がその世界にいるかのように。
果たして、形だけにこだわる者に同じ風景を観ることが出来るだろうか。芸術抜きの魚眼写真を理解出来るだろうか。
しかし、他人が我輩と同じ風景を無理に観る必要など無い。
雑文260「趣味性」でも書いた通り、我輩の趣味性は「情報量」に尽きる。他人に観せるために撮るのではなく、自分に観せるために撮る。それが我輩のこだわりであり、写真に求めるものである。
魚眼レンズは、その手段の一つとして我輩に必要な道具となった。