前回の雑文では、我輩の口調に思わず「おのれ、今まで銀塩カメラの優秀さを強調し俺様をその気にさせておきながら、何の前触れも無く敵側に寝返ったか?!」と怒りに燃えた者もいるかも知れぬ。
だが、我輩は身近に起こる僅かな異変を感じ取り、35mmカメラが徐々に包囲されているということを思い知った。現在の趣味の形態を続けて行きたいのは我輩も同じだが、状況が変わるならば何かしら考えねばならぬ。そしてそのために、自分のスタンスを明確にする必要があると考えた。
一般人はクオリティよりも便利さを選ぶ。それは、音楽業界を見ればすぐに理解出来よう。
高画質なベータビデオよりも、ソフトが多く揃っていたVHSビデオのほうが普及した。高音質なDATよりも、コンパクトでランダムアクセス性に優れたMDのほうが普及した。
反対にマニアと呼ばれる人間は、便利さよりもクオリティを求める。それ故、マニアというのはいつの時代でも、一般ニーズとは違う物を求め、そのことにエネルギーを多く使うことになるのである。
だが、生半可なエネルギーでは何の役にも立たない。マニアをマニアたらしめているのは、クオリティに対する異常なまでのこだわりであり、妥協の無い自分に満足するという、ある種の潔癖さである。
自分の中にそのエネルギーがあるかどうか、それを知るは本人のみ。
今まではスケールメリットという多数派の後ろ盾があった。それが今後期待出来なくなるとすれば、あとは自分のエネルギーのみが頼りである。
来るべきこの闘い、単純に籠城すればやり過ごせるというような生易しいものでは無い。
消耗品としてのフィルム入手はもちろんのこと、現像処理についても限られた現像所でしか出来なくなる恐れがある。そうなると、手に入りにくいフィルムを買うために大きな街に出向き、現像のために数日間ひたすら待つことになる・・・。
これはまさに兵糧責め(ひょうろうぜめ)と言えよう。闘いとは、刀を交える派手なぶつかり合いではなく、兵糧責めに耐える十分な覚悟と忍耐力に他ならない。
兵糧責めに勝つための1つの方法として、時には自分で現像出来るようにする必要があるかも知れない。あるいは100フィートフィルムをパトローネに詰める作業も必要になるだろう。このような作業が長く続くと、どうしてもデジタルカメラの便利さに心を動かされるようになる。しかしそうなったら敵の思うツボ。少なくともモノクロ写真くらいは自家処理が可能な環境を整える必要があろう。
このような努力の1つ1つが、それぞれの「闘い」と言える。
それぞれの努力無くば、もはや籠城をやり遂げることなど難しく、35mmカメラは高価な文鎮となることは必至。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」
自らの35mmカメラに対するこだわりを確かめながら、常に戦況を読む。これこそが、次にどのような行動を取るべきかを迷い無く決めることに繋がろう。