[313] 2001年10月29日(月)
「見方と味方」
映像は、画面の中に視点を持つ。特に動画では、画面フレームの動きそのものが視点であるため、それが分かりやすい。
映像に与えられた視点はそのまま、映像を観る者(受け手)の視点となる。それはつまり映像を捉える時、レンズの奥には数多くの第三者の目があるとも言える。逆に言えば、そのレンズの画角から外れたものは誰も観ることは出来ない。
ある日、テレビで動物の番組をやっていた。
ヌー(牛の一種)の親子が肉食獣の恐怖に晒されながら力強く生きて行く姿を見事に捉えていた。カメラは、ヌーの子供が生まれる瞬間からその親子を追い続け、子供が成長して危険をかいくぐる姿を映し出す。カメラはヌー側の視点であり、その映像を観る我輩は、肉食獣から無事に逃げ延びることを「無意識に」願うのである。
数日後、別の番組ではハイエナのことをやっていた。
ハイエナは一般的に他の肉食獣の獲物を横取りするという悪いイメージがある。実際、チータが捕まえた小さな獲物を群れで威嚇して奪うということもやる。だが自ら獲物を仕留めることも珍しくない。しかしその場合、ライオンなどに横取りされてしまうこともある。群での狩りはどうしても目立つからだ。その時ハイエナは、ライオンの食事が終わるまで待たされることになるが、その姿が「食べ残しを狙う」というイメージとなったのだろう。
そんな不憫な立場に同情しながら観ている我輩は、小さな子供のいるハイエナたち(ハイエナは集団育児)の狩りが成功することを「無意識に」願うのである。
さて、このように「無意識」という言葉を強調したのは、我輩の意志とは無関係であることを示そうとした。
感情は意志とは無関係に湧き上がる。さらには、感情に支配されて意志を動かされる場合もある。
(もともと感情とは行動の動機付けであり、個々の生命の生存率を高めるために必要であった。感情に基づく意志は、衝動的な素早い行動を可能とする。だが文明社会においては、それが逆に仇となることが多い。)
同じ現象を捉えた映像でも、視点によって湧き上がる感情が異なる。草食獣をレンズで追うならば草食獣の味方をし、肉食獣をレンズで追うならば肉食獣の味方をする。まさに、見方が変われば味方も変わる。それは無意識であるだけにタチが悪い。
それは、なにも動物の映像に限らない。感情を持って映像を観るならば、第三者は無意識に敵と味方を決めてしまうだろう。
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