[246] 2001年03月26日(月)
「自覚があるか」
雑誌か何かで読んだ話だったと思うが、水面近くで魚の写真を撮っていたカメラマンが、どうしても水中で写真を撮りたい一瞬があったという。そのカメラマンは、その1枚のために、とっさに自分の愛機を水に浸けてシャッターを切った。
当然ながら、カメラはその直後にオシャカとなった・・・。
「カメラは写真を撮るためのものであって、カメラ自体に執着は無い」
たまに、このように言う者がいる。恐らく彼らは躊躇無くカメラを水に浸けることが出来るだろう。彼らにとって大事なのは、カメラではなく写真なのだ。
我輩は知人からよく、「おまえは写真よりカメラの方に入れ込んでるな」と言われることがある。それは当たり前だ。プロではないのだから、カメラを大事にする。使い込んでカドがスリ減ることはあっても、水に浸けたりはしない。
しかし、我輩は過去に、勘違いをして水に浸けるのと同じようなことをした。
それは大学時代のことだったが、マラソンを撮りに行ったことがあった。その日はあまり天気が良いとは言えず、選手たちがゴールに入る頃には雨が降り始めた。我輩は競技場入り口の所で、選手たちが戻ってくるのを撮っていた。
我輩は傘をさしながらシャッターを押していたのだが、雨はだんだん強くなり、傘の中まで降り込んで来た。レンズ鏡胴には水が滴り、それをタオルで拭いながらカメラを構え続けた。
カメラなど壊れても、写真が残ればいいと思った。その時装着していたレンズは、当時新製品だった「Canon EF35-135mm F4-5.6 USM」である。
金の無い大学時代だったが、身分不相応な撮影をやっていたものだと今さらながらに思う。カメラを潰してまで写真を撮るなど、我輩がやるべきことではなかったのだ。
幸い、カメラとレンズには異常が出なかったが、その後別のレンズに買い換えたので、不具合が出ても判らなかっただけなのかも知れぬ。
過酷な条件で調査の目的で使われるようなカメラであれば、何台か潰れるようなことがあっても、必要な情報としての写真が得られれば、調査の目的が達成されたと言える。数千万円単位の高価な調査機材の中にあっては、数十万円のカメラの値段など取るに足らぬ。
また、多くの読者を抱える写真雑誌なども同様に、カメラ数台分の損失など、雑誌の売り上げ向上に繋がれば安いものだ。
我輩の場合、現在の自分の予算(所得)を考えると、数十万円のカメラを消耗品扱いにはとても出来ない。そうなると、「Nikon F3」ではなく「Canon EOS Kiss」あたりを使う必要があろう。これなら、1年に2〜3台くらい使い潰すことが出来る。躊躇無く水に浸け、1枚だけで終わるシャッターを押せるだろう。
しかし、我輩のカメラは「EOS Kiss」ではない。
よほど貴重な場面に立ち会ったというなら少しは葛藤するかも知れぬが、普通なら我輩の愛機「Nikon F3」を水に浸けることはしないだろう。
仮に水に浸けたとしても、カメラ内部に浸水するほうが一瞬でも早ければ、1枚さえ撮れないこともあり得る。全くムダな犠牲かも知れない。そういう状況で1枚の写真に賭けることが出来るかと問われれば、我輩は「出来ない」と答える。我輩にとっては写真も大事だが、カメラもまた、大事なのだ。
我輩には、「カメラは写真を撮るためのものであって、カメラ自体に執着は無い」などと言うだけの財力も無ければ思い切りも無い。ギリギリの予算でやりくりするだけの一般小市民だと自覚している。だからこそ、カメラに対する思い入れもまた強い。
もしカメラが、写真を得る目的だけの道具に過ぎないのだとしたら、カメラとは完全なる消耗品である。もしもの時には、カメラを潰して写真を撮れ。
しかしながら、とっさの場面で迷いが出ないようにするには、自覚が不可欠である。
「必要な1枚を撮るために、自分のカメラを水に浸ける覚悟はあるか?」
それを自分自身に問うてみれば、自分の、写真に対する姿勢が判るはずだ。
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