[223] 2001年02月06日(火)
「渡る世間・・・」
ヘナチョコ妻がテレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」を観ているので、同じコタツに入っている我輩も何となく観てしまう。
このドラマ、個性的な俳優「えなりかずき」が出演する。彼は結構特徴的な雰囲気を持ち、一度見たら忘れない。
あるトーク番組で、えなりかずきが出演していた。
えなりかずきの父親は、自分の顔にコンプレックスを持っていたらしい。ところが、その父親そっくりの子供が産まれてしまった。父親はショックを受けたが、この顔を世間で広く認知し慣れてもらうために、テレビに出すべく自分の子供を俳優にしたのだという。
そう言われれば、人の顔というのは慣れることによって身近に感じる。
読売ジャイアンツのゴジラ松井も、最初は「ゴッツイなあ」というイメージだったが、今は「松井らしいな」というふうに変わったな。
「ニコンFM3A」、ペンタプリズムの頭頂部が狭いデザインになっている。ホット・シューがあるので気付かないが、そのラインは「ニコンF」に近付こうとしているかのようだ。
今時のカメラはペンタ部にストロボを内蔵しているものが多く、新製品のほとんどはペンタ部上部が平べったい。そういう目で見ると、とがったFM3Aのペンタ部は目に慣れない。
第一印象というのは、やはりデザインだ。
そういう意味で、FM3Aの個人個人に与える印象というのは、真っ二つに分かれるだろうと想像する。斜めの「Nikon」ロゴも評価が別れそうだ。正直言って、我輩好みのデザインではない。
しかし、このスペックはタダ者ではない。今まで期待されていたものの、本心では作れないだろうと諦めていたスペック。それが新方式のハイブリッド・シャッターである。
今までのハイブリッドシャッターのように低速側を電子式、高速側を機械式と分けているわけではなく、「マニュアル露出時の機械式」と「絞り優先AE時の電子式」が完全に切り替わるらしい。
今まで電池には泣かされてきたからな。そういう呪縛から解き放たれる解放感というのは、何モノにも代え難い。電池が切れても何も心配する事は無いのだ。機能は100パーセント保証される。
自然の美しさを写真で訴える人間が、カメラによって電池を大量に使い捨てるという現代の矛盾。しかしFM3Aによって、その矛盾に悩むことも少なくなる。電池切れを恐れ、必要以上に電池をストックしておく必要がない。これからは、電池が切れても許せるだろう。このカメラは、使う者を寛大にさせてくれる。
そもそも原理的に電力を必要としない写真であるはずが、電池が無ければ写真が写せないというのは明らかに変だろう? もちろん露出計は使えなくなるが、あんなのは元々、カメラとは別の機械のはずだ。原始細胞に取り込まれたミトコンドリアのように、いつの間にかカメラに寄生し離れなくなったに過ぎない。その機能が死のうが生きようが、撮影の本質には関係ないこと。まさか、画質が悪くなるとでも言うのか?
(あまりに高度に発達し過ぎると、ミトコンドリア無しでは細胞は死滅するだろうが・・・カメラもそうか。)
フルメカニカルで使うことを覚悟して購入するFM2とは違い、FM3Aは広いユーザーに向き合うことが出来る。そういう面で、貴重な存在だと言えよう。
シンプル過ぎず、複雑過ぎず、高過ぎず、安っぽ過ぎず。バランスがうまく取れた場所を狙っているのが良い。これなら、人にも安心して勧められるというもの。
ただ最初は、我輩のように「新製品は1年くらい様子を見るか」という者もいるかも知れない。我輩のように「デザインに違和感がある」という者もいるかも知れない。
しかし、まじめに作られてさえいれば、なんだかんだ言っている者もその存在を気にすることになろう。
そのうちFM3Aのデザインは目に慣れてくるはず。少なくとも、無駄なラインが無いのがマジメで良い。「えなりかずき」のように、それが良い特徴となり安心感を生む要素となることを期待する。
第一印象による評価が悪くても、必要な人間はいずれ購入するものだ。
渡る世間に鬼は無し。心おきなく生まれ出よ。
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