[213] 2001年01月25日(木)
「お持ち帰りの風景」
写真というのは、一瞬の時間を切り取る。
だから、おジイちゃんやおバアちゃんの若い頃の写真を見ることが出来る。子供の成長記録として、その時その時の姿を固定しておくことが出来る。さらには、亡くなった者の生前の姿も、写真の中にとどめておくことが出来る。
これは、誰もが知っている写真の特性だ。わざわざ言う必要も無いほど当たり前のこと。
しかし、もしも写真が時間をとどめておかないとしたら・・・? 写真に写った人物も、現実とリンクするように老い、そして消滅するとしたら・・・?
写真を撮る行為というのは、「対象物をコピーする」という意味合いも含まれていると思う。
美しい風景や珍しい風景、遠い外国の風景。それ自身を移動させることが出来ないものだから、せめて写真に収めて持ち帰る。
しかし撮影時に、曇っていたり、余計な枝があったり、邪魔な人間が入り込んでいたりすると、それを一瞬だけでも避けたいと思う。なぜなら、写真はその瞬間の風景を永久にとどめることになるからだ。
写真に撮るほんの一瞬だけでも、雲が切れて青空が覗いて欲しいと思う。その一瞬さえ捕らえれば、理想的な景色が写真の中で永久に維持され続ける。
しかし、中には不届き者がいる。
平気で立ち入り禁止の湿原に入り込んだり、構図上ジャマな枝をヘシ折ったりする。
自分が立ち去った後、湿原が破壊されようが、枝を折られた木が枯れようが、そんなことはどうでもいい。キレイな瞬間だけを切り取れば、あとはどうなろうと知ったことじゃないのだ。
だから、撮影前には捨てなかったフィルムのパッケージなどのゴミでも、撮影後には心おきなくその場に捨てることが出来る。
それはあたかも、高山植物を無断で摘んで持ち帰るかのごとく自然をむしり取る行為だ。それはもはや「対象物のコピー」ではなく、「対象物の搾取」である。
しかし冒頭に書いたように、もし時間が切り取られずに、その後の風景の姿が写真に反映されるとしたらどうだろう?
写真に写した風景が、現実の風景とリンクして変化してゆく。自分の行為による影響も、その風景に反映される。それだけでなく、他人がゴミを捨てたり、無用な開発が行われるようになれば、さらにその写真の風景は変貌するだろう。
そうなれば、「撮影する瞬間さえキレイであれば良い」という考えも無くなるに違いない。自分たち1人1人の行為が、写真の風景を壊してゆくのだから、自分たちの問題として関わることになるのだ。
写真というのは、対象物の一面を投影した「影」に過ぎない。それを意識すると、いくら写真で美しい風景などを撮ったとしても、それは無数にある美しさの1つでしかないことが理解出来るはずだ。その場に何百回通ったとしても、全ての姿を写し込むことは不可能である。
そういう意味では、瞬間を収める写真というのは、本当は風景を固定させるものではないのかも知れない。
何度もその地を訪れ、そのたびに新しい発見をする。そしてそのことが、動かない固定された写真を動的なものへと昇華することになろう。
次にまた来る時のため、なるべく自分の足跡を自然環境の中に残さないようにする。それが、写真を撮る行為としてふさわしく、また合理的だと思うが。
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