[200] 2001年01月07日(日)
「感動の素」
映画を観て感動することがある。
しかし、後日あらためてその感動シーンだけを観てみると、感動が薄れていることに気付く。おかしいなと思い、今度は頭から通して観てみると、最初の感動がよみがえった・・・。
我輩の好きな映画の1つに、「アポロ13」がある。これは、実際に起こったことを基にした映画である。
この映画を観るまでは、アポロ13号でどのような事故が起こったのかという詳細を知ることはなかった。ただ単に「アポロ13号が事故によって命からがら地球に帰還した」という短い文で伝え聞くのみだった。
世界では、紛争や犯罪、交通事故などで毎日多くの人々が命を落としている。それは特に珍しい出来事ではない。
しかし、たった3人の宇宙飛行士の命を救うために、地上スタッフの努力、そして全世界の人々の祈りが1つになった。普段は「自分のエリアの仕事さえやっていれば良い」と考えているエンジニアたちも、「3人の命を救う」という共通の目標のために、それぞれに出来ること以上のことをやった。
そういった多くの人の努力が実を結び、3人の飛行士は無事に太平洋に着水した。
もちろん、こんな簡単な文章だけでは映画の感動は伝わらない。
それはつまり「感動」の本質というものは、それに至るまでの「過程」の部分にあるのだ。そしてそこで蓄積された「感動の素」が、クライマックスで一気に解放される。
それゆえ、過程の部分が困難であればあるほど、クライマックスが盛り上がることになる。
「アポロ13号が事故によって命からがら地球に帰還した」という短い文を読んだだけでは、何の感動も無い。結果的に3人の宇宙飛行士が生還したという事実は同じく伝わるのだが、感動というものは過程を踏まない物語からは生まれない。
写真の場合、写真を撮る者はその現場に居合わせることになる。当然、シャッターを押すまでの過程をリアルタイムに感覚する。そして撮影者は、出来上がった写真を見て、その時の気持ちをよみがえらせることになる。
しかし写真を観る第三者は、そんな事情を知らない。
「説明が必要な写真は、写真としての価値が無い」と言われることもある。もちろん、その写真自身に説明を必要とするならば、そういうことも言えるかも知れない。しかし、その写真の背景という意味での説明ならば、その写真の価値を大きく変えうるのだ。
背景の説明に文章を用いるのか、それとも別の写真で構成するのか。いろいろと方法があるだろうが、1枚だけの写真で明快な感動を生む作品がある一方で、それなりの過程を通過して感動を呼ぶ写真もあっていいと思う。
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「感動」というと大げさに聞こえるかも知れないが、ほんの些細な事であっても、観る者(それは自分自身であってもいい)の心に何かの変化を与えられれば、写真を撮った意味があると我輩は考える。
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