[197] 2000年12月28日(木)
「開運なんでも鑑定団」
「開運なんでも鑑定団」という番組がある。
簡単に説明すると、石坂浩二と島田伸介が司会をする「骨董の価値当てクイズ」のようなものだ。有名人から一般人までいろいろな者が持ち込む「お宝」に、鑑定団が容赦無く値段を付けてゆく。
そしてたまに「これは数百万の価値がありまっせ!」と持ってきた骨董が実は全くの贋作(いわゆる偽物)で、数千円の価値しかなかったりすることもあり、ガックリ肩を落として帰っていくシーンもある。
贋作は銘を偽ったりすることはもちろんだが、年代を古く見せるためにワザと汚したりもする。しかし、汚しただけでは鑑定団の目をごまかすことは出来ない。鑑定士というのは、歴史的背景を基にした総合的な判断を行う。見た目だけでは引っかからない。
やはり、鑑定はシロウトには難しい。「見る目を養う」という言い方をしているが、実は時代背景やその他の勉強が、「見る目」の視点を変えているのだ。
さて、年末年始は大分の別府へと遊びに行く。そこから近いので、臼杵(うすき)に寄るかを検討中である。
臼杵は、崖に彫り込まれた石仏が有名である。土産物のお菓子の箱にも印刷されている。
しかしこの石仏は、風化しやすい岩石を彫って作られているため、20年ほど前から10年以上かけて修復工事が行われたと聞く。
壊れた部分の補修と、風雨を避けるための屋根を付けたそうだ。
そのことについて、当時のカメラ雑誌には、「修復されることによって、石仏の雰囲気が壊れてしまうことが心配だ。屋根を付けると水分が行き渡らなくなり、苔も乾いて石仏が白っぽくなる。」という記事が載っていた。要するに、「苔むした雰囲気そのままに保存出来るようにしてくれないか」という意見だった。
確かに修復すれば石仏の雰囲気は壊れよう。しかし、その石仏が造られた当時は、ツヤツヤした石の表面が美しかったに違いない。それが年代と共に風化され、現代のような姿になった。言うなれば、溶け始めた中間状態である。
我々のような一般人には、その石仏の本当の価値は理解出来ない。それゆえ、見かけの雰囲気にその価値を見い出そうとする。それっぽい雰囲気さえあれば、「張りぼて」でも何でも騙されるだろう。
歴史を感ずるためには、知識の無い一般人にとっては古びた様子だけが唯一の手掛かりとなる。苔むした石仏を前にすると、乏しい知識からでも容易にその有り難みを実感するということだ。
しかし、写真を撮る目というのは、そんな表面上のものだけでいいのか?
写真家とは、普通の人間よりも少し目の付け所が違うと思っていた。しかし、この記事に書かれた意見を読む限り、案外一般人と変わりないということが分かった。
だからこそ、雰囲気だけを求めて捏造写真を撮ったりも平気でやってのける者も現れるのだろう。
我輩は、「写真を撮るのにはイメージが必要だ」と何度か書いた。しかし、そのイメージが現実と違うからと言って、現実のほうに難癖を付けるのは知能の低さをPRしているようなものだと思う。
誰もが想像出来るような表面の「らしさ」だけでなく、見る者に岩の中心の硬さを感じさせるような写真を撮る意気込みが欲しい。
修復されたなら、それが本来の石仏の姿に近いはず。誰も苔をかぶせて仕上げたわけではないのだ。
石仏のことを色々と調べて行けば、造られた当時の風景が心の中で再現されるに違いない。写真家ならば、そんな風景を写真で表現しないのか。一般人では表面しか見ないようなものでも、プロの目で石仏の真の価値を写真で炙り出して、シロウトの我々に見せてくれ。
そんな底の浅い写真家、無理に苔むした様子を再現しようとも、その写真を鑑定士に見せれば「贋作ですな」と言われるだけだぞ。
話は変わるが、我輩はもう明日から九州に帰省する。もしかしたら今年はもう、雑文を書くヒマは無いかも知れない。
カメラ雑文、当初は単なる日記帳のようなものだったが、だんだん思想に染まった文となってきた。色々な方から激励も頂き、お陰様で今日まで続けることが出来た。
「今年はどうもありがとうございました。そして、来年もよろしく。」
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