秋葉原のハズレにあるメガネ屋の前を通りかかった。店頭には天体望遠鏡が並んでいる。どれも手が届く値段で驚いた。
我輩が中学生の頃、天体望遠鏡というのは非常に高価なイメージがあったが、社会人として見ると、無理すればなんとか買えそうな値段に思える。
中学時代、我輩はよく友人と天体観測をやっていた。
メンバーは大体決まっており、「クラッシャー・ジョウ」、「オカチン」、「強がり者K」であった。その中でも、オカチンの家の近所には、自分で反射鏡を研磨するほどの天文オヤジがいて、ニュートン式反射望遠鏡を借りることができた。
我輩も、貰い物だが6センチ屈折望遠鏡を持っており、自転車の荷台にくくりつけて集合した。
天体望遠鏡で見る星や惑星は魅惑的で、リアルタイムな感動があった。星からの光は何百何千年もかけて地球に届くわけであり、リアルタイムという言葉は適切ではないかも知れない。しかし、その星の放つ光が望遠鏡を通して我輩の目に直接像を結ぶことを考えると、ロマンを感じずにはいられなかった。
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オカチンの自宅裏で観測の予行演習しているところ。写真の少年はオカチン。向こうの黒っぽい望遠鏡は天文オヤジの手製。手前のはオカチン所有のビクセン製望遠鏡。
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中学校の校庭で月面観測を行っているところ。オカチンが月面マップを地面に広げている。背景には我輩の望遠鏡が見える。
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初めて土星を見た時は、やはり感動した。あの有名な土星の輪が、本当に肉眼で見れるとは思わなかった。
その光景を写真に残しておきたいと思ったのは当然のことだろう。目の前の土星は、放っておくとだんだん視野から外れていく。もっと時間が経てば、夜が明け、明るい光の中に土星は霞んでゆく。天体写真の撮影は必然的な行為だった。
当時、キヤノンAE−1を中古で手に入れたばかりだった。望遠鏡に接続しようと思ったが、カメラマウント(カメラ本体とカメラアダプタを介するための各社用マウントリング)を持っていなかったため、ヒモでくくりつけて撮影したりした。
望遠鏡を直接覗いていた時はクリアに見えた星が、カメラのファインダーではザラついて見えた。ピント合わせも一苦労で、現像が上がってくるまで心配で仕方なかった。
星が良く見える夜というのは、決まって冷え込みが厳しい。今でも、寒い夜には、あの頃の空の匂いを思い出すような気になる。
いろいろと苦労の絶えない撮影であったが、またあの時のように天体撮影をしてみたいものだ。
しかし、現在は星空を見ることが出来ない。夜空を見上げても空は真っ暗ではなく、その中に数えるほどしか星が認められない。
車でもあれば、星の見える場所へ遠出することも出来るだろうが、今は自転車すら持っていない。カメラバッグに入る程度の望遠鏡、赤道儀、三脚、モータードライブでもあれば、電車でも行けるのだろうが・・・。
いくら高価な望遠鏡を手に入れたとしても、ここでは何の役にも立ちはしない。撮りたくとも撮れない写真。書店で手にした天文雑誌を、買うこともなく棚に戻す寂しさを今日も繰り返す。
いつか、田舎に住むようなことがあれば、きっと天体望遠鏡を買おうと思う。それがいつのことなのか、我輩には分からない。