2000/04/05
OPEN

表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
8.リンク
9.掲示板
10.アンケート
11.その他企画

12.カタログ Nikon
 F3 (F3H)
 FM3A
 FM2
 FM
 FE2
 FE
 FA
 FG
 FM10
 FE10
 F4
 F-401X

Canon
 AE-1P
 AE-1
 newF-1

PENTAX
 K1000
 KX
 KM
 LX
 MX
 MZ-5
 MZ-3
 MZ-M

OLYMPUS
 OM-3Ti
 OM-4Ti
 OM-2000

CONTAX
 ST
 RTS III
 Aria
 RX
 S2

MINOLTA
 X-700
 XD

RICOH
 XR-7M II
 XR-8SUPER

カメラ雑文

[124] 2000年 8月26日(土)
「思想」

脳の中には、色々な情報が収められている。脳はその情報を、ニューロン(神経)回路を通すことによって思考する。言い換えれば、「自分」という存在は、形を持たない「情報の流れ」である。

脳がコンピュータと違う点は、脳は入力した情報(知識・体験等)をニューロン回路として形成し、その回路を使って情報を処理するということだ。情報を格納する部分が同時に、情報を処理する部分でもある(メモリベースアーキテクチャ)。コンピュータのように、決められた(固定した)プログラムによって情報を処理するのではない。

それ故、脳は入力する情報によって自己の論理体系を修正していく。例え一卵性双生児であろうとも、知識・体験が微妙に違えば論理形成が異なる(それぞれが「兄」・「弟」という異なる立場を持つことになるので、ただそれだけでも体験が異なることになる)。

これらのことから言えるのは、「自分」とは、今まで得てきた知識や過去の体験などの積み重なりであり、その都度思考してきた結果そのものであるということだ。その人間が辿ってきた知識と体験のパターンは唯一無二のものであるため、自分の持つ論理体系は世界にたった1つしか存在しないことになる。

以上が、確認事項である。



「人間の眼のレンズは1種類しかないから、私のカメラも50mmレンズ1本で撮り続けています。」
例えばこのようなことを聞くことがある。

これは、信念というか、一種の「思想」と言えるかも知れない。数多くの交換レンズが用意されている中で、わざわざ50mmレンズしか使わないというのは、そうさせるための思想があるからだ。
これは1つの例として取り上げたが、写真を撮る者は、大なり小なり「思想」を持っているはずだと思う。

しかし、ある1つの思想というのは、必ずしも全ての人間が同意できるとは限らない。自然法則とは違い、思想は人間の思考回路(脳内のニューロン回路)に左右される。
同じ情報を得たとしても、見方が違えば、得られる結論も異なる。
例えばキリスト教でもいくつかの分派があり、それぞれ聖書の解釈が全く違うように、思想は受け取る側で変容する。

ここで取り上げた例の場合、「人間の眼のレンズは1種類しかない」というのは事実だが、脳が見ている映像では、情報の取捨選択が行われているということも事実である。視野全体をまんべんなく認識しているわけでなく、意識の集中したものだけを見ている。その点で言えば、望遠レンズを使った写真がそれに近いかも知れない。

ここで強調するが、思想について「これが正しい、これが間違っている」などとは言えない。
それらはあくまで、一つの見方である。50mmレンズ〜云々の話にしても、たまたま例として取り上げただけで、その内容についてどうこう言う意図は無い。

では、何が言いたいのかというと、他の人間が言うことをそのまま自分に100%受け入れることには意味は無く、また、やろうと思っても出来ないということだ。
「50mmレンズ1本で撮っている」という話を聞いて、別の人間がそのスタイルに共感したとしても、全てを真似ることは出来ない。ただ単に同じように50mmだけを使っても、それは形だけの話だろう。いずれ、迷いが生じる。いずれ、飽きてくる。
(習い事のような、スキルを上げるための「真似」はここでは別の話)
それぞれの人間の生きてきたバックグラウンドが違うのだ。どういうバックグラウンドを持った状態でその結論を導いたのか。それが重要である。「1×1=1」と「1÷1=1」は、答えが同じであっても、その論理は異なる。


50mmレンズ〜云々の話では、「なぜ自分がそれに共感したのか」というのが重要だ。それこそが自分の思想を知る貴重な手掛かりとなる。
その一番大事な部分を考えずに人の思想を取り入れたとしても、その目的を失うだけだ。それがいかに「目からウロコ」であろうとも、冷静に自己を見つめ、思考しなければならぬ。

人間はそれぞれ違うと冒頭に書いた。それは「個性」と呼ばれる。個性とは、言い換えれば「ユニーク(無二なもの)」である。全てが同じ人間ならば、我々1人1人は、かけがえのない存在とは言えなくなってしまう。
芸術が「表現」であるとするなら、その表現はユニークでなければならぬ。なぜなら、それを表現する者自身がユニークであるからだ。

もし他人の思想に共感したとしても、それは示唆(ヒント)を受けるにとどめるべきである。その示唆を自分の中で種(タネ)とし、自分の思想に最適化せねば、「怠慢」と言われても仕方あるまい。
(思考した結果、同じ手段に落ち着くならば、それはそれで意味が有ろう)

自分の視野に合わせ、24mmレンズ1本にするなり、100mmレンズ1本にするなり、あるいは、考えた末に50mmレンズ1本にしてもよい。
ただ目の前にいる人間のスタイルをそのまま考えも無しに受け継ぐことは、自分の存在意義を失う行為であろうかと思う。

「思想」とは、個々人の中にある、人間そのものだ。真の意味で「思想」だけを抜き出す事など出来はしない。それは「脳」と「自分」とを切り分けられないのと同じ事である。
現実は1つしか無いが、思想は人間の数だけ有る。

思想無くして思想は学べぬ。


この文章も、一つの示唆を与えるに過ぎず、そのまま思考することなく受け取るべきではない。この文章の内容などは重要ではない。最も重要なのは、読む者が自分の考えとの違いを知ることである。