[111] 2000年 8月10日(木)
「適正露出は1つではない」
我輩は以前より、「適正露出は1つではない」と何度か書いた。今回はそのことについて、我輩の考えをここに書く。
ポートレートなどで、「明るめに表現すれば、表情も明るく見える」などと言われることがある。そして、プラス補正をしたりするわけだ。そういう意味で適正露出の判断が変わってくるという意味もある。
しかし、我輩の言っている「適正露出は1つではない」ということの意味は、少しニュアンスが違う。
ご存知の通り、写真フィルムは人間の網膜とは特性が違う。
肉眼で見た風景は、日向の明るい部分と日陰の暗い部分が同時に見えたりする。しかし写真に撮ると、明るい部分が飛んだり、暗い部分がツブれたりしてうまく収まらない。
これは、人間の網膜が「非線形」の特性を持ち、光量差に対して「柔軟」だからである。一方、フィルムの特性は「線形」であり、悪く言うと「融通が利かない」。フィルムはあくまで画面内全てのエリアでは感度分布が一様なのだ。
人間の眼では表現出来てフィルムには表現出来ないのであるから、「フィルムは網膜に比べて性能が良くない」という見方はできる。ただし「線形」であるが故に比例関係が保たれ、再現性があるとも言える。長所と短所は表裏一体なり。
太陽を望遠鏡で観察する際、接眼レンズには「サングラス」と呼ばれるネジコミ式のフィルターを装着する。この「サングラス」とはNDフィルターのようなもので、全体の光量レベルを下げてくれる。太陽の光は、直接見るにはあまりにも光が強すぎ、このようなフィルターを必要とする。
さて、サングラスによって光量レベルを下げたことにより、太陽の表面には普段見えないものが見えてくる。天体に興味の無い者でも、中学の理科で「黒点」という言葉くらいは聞いたことがあるだろう。明るく光る太陽表面に、黒いシミがポツポツと見える。これが「黒点」である。
黒点は、周囲よりも1000度〜2000度低い。しかしそれでも黒点本体は4000度もあり、黒点だけでも十分に光を放っている。まぶしく光るものであっても、周囲との温度差のために黒く見えるのだ。
またそれと関連した話だが、皆既日食では太陽の周囲に放射状の淡い光「コロナ」が見える。これは、太陽の周りに広がる薄い高温のガス層のことだが、これも光を放っている。黒点と同様に、太陽本体の光と地球の大気による拡散光のため、通常は見えない。皆既日食で強い光が遮られて初めて姿を現す。
このように、光量レベルを調節する事によって初めて見えてくるものがある。
それはあたかも、テレビのチャンネルを変えるかの如く、それぞれの光のレベルでの濃淡が存在し、それが重なり合っている。普段は強い光で見えなかった濃淡でも、露出のチャンネルを変えると見えるものが変わる。
自分にとっての適正露出とは、どの層(光量レベル)を表現するかを選択することと言える。
「白」は色ではない。光量である。一般には「白」よりも白い色はないと思われているが、ある一定レベルを越えた光量は白としか見えないだけである。目の前の白い紙がグレーに見えるまで露出を落としても、同時に写り込んだ太陽は、まだまだ白く見える。
撮影者の表現意図がどこにあるのか。どこかで意図を差し挟むことが必要になる。
自分で露出を手動で設定するか、あるいはAEに対して補正するか。手段は違っても、意図の反映という意味では同じ事だ。仮にカメラ任せの全自動であったとしても、その写真を「採用する・採用しない」という行為は、撮影者の立派な「意図の反映」となる。
意図が変われば、当然、適正露出が変わるのだ。
そう言う意味で、「適正露出は1つではない」。
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