[084] 2000年 7月13日(木)
「中判カメラのAF化について」
我輩が中判カメラを使う時は、画像のクオリティだけを求めている時である。それ以外のこと、例えば「カメラの質感」や「操作性」などは全く意識にのぼらない。35mmカメラの場合と極めて対称的だ。
メーカーにしても、特にこだわりはない。こだわるとするなら、ハッセルブラッドやローライあたりを使いたいと思うのだろうが、我輩は圧倒的に値段の安いゼンザブロニカを使う。
ゼンザブロニカでは「アオリ撮影」の出来るレンズが用意されていないのが致命的であり、そこに限界を感ずるが、それ以外では特に不満は無い。
中判で注意深く撮影した作品は、息を飲む程に緻密である。ピントを厳密に合わせ、三脚を使ってブレを極力無くし、微粒子のリバーサルを使う。そしてそれをキャビン製スライドプロジェクターでスクリーンに投影すると、思わず「おお」と声が出る。この感覚は、実際に見てみないと分からないことだ。
写っている絵柄はともかく、その緻密さは一見の価値がある。逆にそのメリットが無ければ、苦労して中判で撮影する意味は無い。
我輩は、中判カメラがAF化されることを望んでいる。いや、中判カメラ全てがAFのみというのは問題があるだろうが、少なくとも各サイズに1種類ずつあっても良いと思う。今の中判AFカメラは645サイズしかないが、6×6、6×7、6×9などにもAFを導入するというわけだ。
645サイズ以外についてのAFのニーズはあまり多くないということも理解できるが、時にはAFで楽をしたい場合もあるのではないか? 大抵の一眼レフタイプの中判カメラではワインダーが用意されているのであるから、手間を省くという意味では、AFもまた便利なはずだ。
中判カメラのメーカーならば、「AFは単に機能の1つである」という物の見方が出来ると信じている。もし、数字だけの競争になると、35mmカメラの二の舞になってしまい、ただでさえ少ない中判カメラメーカーがさらに減ってしまうことになろう。そこは気を付けてもらいたいところだ。
少なくとも我輩に限って言わせてもらえば、中判は撮る楽しみよりも、観る楽しみを感じる。現像後のポジを見るたび、撮ったその場では感じなかった「緻密感」を楽しむことができるのだ。その時初めて、撮影の苦労が報われる。
それにしても、中判カメラで「プラスチックボディがイヤだ」とか、「機械式シャッターでないからダメだ」という話はあまり聞かない気がする。それなのに、AFについては、ユーザー側は受け入れられないのだろうか? 中判カメラは中高年ユーザーの割合が多いという印象があるが、それこそAFが必要だと思うのだが・・・。
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