パソコンに慣れた者なら、両手をキーボードのホームポジションに置くと、自然にそのアルファベットを打つことができる。逆に、目でキーボード上のアルファベットを探すのは時間がかかる。
このことはパソコン初心者には難しい芸当だろう。ボタンだらけのキーボードの中から、特定のアルファベットを探すには、ただひたすら文字を見つけるしかない。
液晶表示カメラは、「キーボードを目で追う」というのと同じことを強要している。
最初は分かりやすいだろうが、慣れてくると面倒になる。何をやるにしても、液晶を見なければ始まらない。
以前のカメラならば、クリックの数を指先でカウントすることによって絞り値を設定する事ができたものだ。しかし、今は本体側のボタンや電子ダイヤルで設定するようになっている。いくら操作に慣れても、必ず液晶表示を見ながら操作しなければならない。
人間の行動は、「慣れ」によってパターン化される。いったん、その行動がパターン化されれば、いちいち考えなくとも無意識に行動できる。そうなると、その行動が面倒にならなくなる。自分の思ったことが、無意識にカメラに伝わるようになるのだ。それはまるで、パソコンのキーボードでホームポジションに手を置いているかのようだ。
もし、それが出来るくらいに自らを訓練させる気が無いのであれば、ダイヤル式の操作体系というのは特別な意味を持たない。ダイヤルを前にして「どこが使いやすいんだ」と言うだけだ。全てをお膳立てしてもらわなければ何も出来ない人間に、道具の使いやすさなど説いたところで理解されようはずもない。
手っ取り早く便利さを求めるなら、パソコンのキーボードを目で追うかのごとく、液晶表示カメラを使い続ければよい。そのほうが分かり易いんだろう?
しかしそうは言っても、使用者の目的に応じた操作体系がそれぞれあっても良いのではないか? 現在は、カメラ全体が液晶表示の操作に統一されてしまっている。とにかく選択肢がほとんど無い。「初心者でも分かるように」というのは理解できるが、カメラの操作に慣れていないヤツらのために、なぜ我輩が合わせなくてはならない?
もし、そのことに不満を持つ人間が我輩だけなら、このサイト「ダイヤル式カメラを使いなサイ!」の存在理由は全く無い。
そうではないことを祈りたい気分だ。
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明日は本日の話題に関連して、「従来のダイヤル」と「電子ダイヤル(コマンドダイヤル)」について考えてみようと思う。
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