[052] 2000年 6月11日(日)
「歴史に“もしも”があったら」
歴史に“もしも”はタブーとされる。それを承知で勝手な想像をしてみるのも面白いかと思う。
我輩は、カメラの素材にかなりこだわる。実用一辺倒の人間には理解できないことだろうが、金属ボディでなければ(少なくとも金属っぽい仕上げでなければ)そのカメラに愛着を持つことはできない。
プラスチックボディのカメラが現れたのは、素材として「エンプラ」などの強化プラスチックの発達によるところが大きい。よく見ると、AFカメラが現れる少し前からプラスチックボディのカメラが現れているのが判る(本格的なプラスチックの採用は、キヤノンT50オートマンが最初)。そう考えると、AFが現れなくても、いずれカメラはプラスチックの塊になる運命だった。
では、“もしも”このような強化プラスチック技術が無かったとしたら、今のカメラはどんなものになっていたろう?
予想するに、いまだに金属ボディが主流となっているだろう。そうなれば、あのミノルタ「α−7000」はもちろん、レンズマウントまでプラスチックだった「EOS−1000」でさえも全金属製だったに違いない。もちろん、軽量化のためにアルミニウム合金やチタン材を使ったかも知れないが、とにかく外見の安っぽさは無くなる(キヤノンのことだから、従来のプラスチックで強引にプラスチックカメラを作る可能性も否定できないが)。
いやしかし、そうなると、プラスチックボディに飽きたユーザーが金属ボディをもてはやすという構図も無くなり、カメラ業界は実際よりも低迷していたかも知れない。金属であることが当たり前である時代なら、金属であることの有難みなど感じることは無いのだ。
最近、黒いプラスチックにわざわざ銀色を塗ったカメラが出はじめた。ご丁寧にも金属のコーティングをしたモデルさえある。それはつまり、金属の質感へのニーズが高まっていることを意味している。
このまま行くと、次の時代はどうなるのだろう?
強化プラスチックが有ろうが無かろうが、行き着くところは変わらないのだろうか。そう考えると、やはり歴史に“もしも”はタブーなのだろう。
|