2000/04/05
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表紙

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5.カメラ雑文
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カメラ雑文

[390] 2003年01月07日(火)
「批判メール」  (※アンケートからリンク)

日本人というのはマジメである。
マジメであるが故に、多様な価値観というものを認めたがらない。
「ソバを喰う時には喉で喰え(噛まずに飲み、喉越しを味わえ)」と客を叱る店主もいるほど。
日本人は、楽しむということが苦手なようだ。

最近は少なくなったものの、我輩のサイトにも幾つか批判とでも言うのか、「自分の価値観に合わないので許せない」という内容のメールが届く。わざわざ匿名で書いてくる。
そのほとんどが、我輩の所有カメラに関するものである。
「カメラは写真を撮る道具に過ぎぬ、写真を撮るだけでなぜあれほどの数のカメラが必要なのか」と。

別に、カメラが何台あろうが、盗んだもので無い限りとやかく言う必要もあるまい。なぜにわざわざ匿名でメールを送りつけて自分の価値観を強要するのか。
それはまるで、「そんな部屋がいくつもある豪邸など建てても、家族3人しかいないのに無駄だ。建て直せ。」と言っているようなもの。
あるいは、「フェラーリなど乗っても狭い日本では無駄だ。国産中古車でも買え。移動手段としては同じだろ。」と言っているようなもの。

「写真を撮るためにカメラが2〜3台あれば十分。それ以上あって何の意味があるか。」と言ってきた者について、あまりにマジメ過ぎる意見に、この人は何が楽しいのだろうかと考えさせられた。
恐らく、全てを合理的に考え説明付けられねばならぬと考えているマジメな人間なのだろう。

例えば、「結婚しても子供を作らないのは間違っている。何のための結婚だ。」という意見もこの種の人間の論理である。マジメ過ぎるその意見、確かに理にかなったもののようにも思えるが、結局は誰も納得させることは出来ない。
何よりも、一つの価値観だけに固執し、他人も同じようにしてもらわないと我慢出来ないという思想は、さぞかし生きるのに辛かろうと同情する。


人は、パンのみに生きるにあらず。
生存のためには直接関係無いものであっても、人間というものは無駄とも思えることが必要なのだ。楽しみが無くて写真など撮れまい。撮る意味も無かろう。

「車は移動するためのもの」、「家は寝るためのもの」、「カメラは写真を写すためのもの」・・・。そんな単純な話しか出来ない者は、面白味も何も無い。ガリ勉優等生タイプと言える。
もしここで、「ワシのほうがもっとたくさんカメラを持っておる。キサマ程度ではまだまだ甘いわ。」などと言う者あれば、そちらのほうがまだ面白さがあり気が利いている。

人間はいつか死ぬ。それが全てに於ける最終的な結果である。もし結果だけが全ての価値ならば、我々が今生きて努力していることの意味を失うだろう。どうせ死んで無に帰すのだ。努力するだけ無駄としか思えまい。
だが人生を如何に楽しみ、如何に前向きに生きるか。それは、生きる人間の目的の一つである。仮に、「生きるためには必要無いもの」という価値観で否定するならば、それこそ写真など撮っても何の糧(かて)にもならぬ。撮った後の写真(結果)しか見えぬならば、何をやろうが全ての行為は無駄となる。

人より良い写真が撮れれば、写真の趣味として理想なのだろうか?
それで喜びの全てがまかなわれるのだろうか?
そもそも、写真の優劣とは?
多様な価値観を理解することが出来ず、1つの価値観に皆を縛り付けて勝負させようとする。勝ち負けや順位というものでしか価値を見出せないとするならば、そのような人生はマジメ過ぎてつまらない。

以前、批判者とメールで論争をしたことがあるが、相手は「それは間違っている」として我輩の価値観を認めようとしない。そういう者との論争は、結局不毛であった。相手は多様性を認めようとしない。前提から我輩の思想とは違うのだ。話など出来るはずも無い。
それ以降、我輩は時間の無駄と考え個別の対応はしなくなった。
しかし、同じような批判メールは相変わらず届く。

良い写真が撮れるかどうか、それも一つの価値観だが、単純に自分が満足する写真が撮れるかどうか、というのも一つの価値観。カメラそのものを楽しむのも、また一つの価値観。
もしここに、カメラを楽しむことに後ろめたさを感ずる者がいるならば、遠慮する必要など全く無い。心おきなく自分の趣味を追求しろ。自分の心に素直になれ。自分に正直になり、少年の心を取り戻せ。写真を楽しめなければ、如何にテクニックを駆使して皆の認めるような素晴らしい写真を撮っても自分が満足出来ぬぞ。本当にそれで良いのか?
趣味の写真ならば、誰一人振り向かない写真であろうとも、自分が楽しんで写真を撮ることが何より尊い。それでこそ、自分の心が投影出来、「自分」がそこに存在する意味を生む。

いいか、「カメラは写真を写す道具に過ぎない」などという言葉に惑わされるな。それは正論であるが故に人を惑わす言葉である。この観念に囚われ、自分の心を押さえ込み、人生の貴重な時間を無駄に費やすな。今、ここで目を覚ませ。

良い写真を撮ったと自慢してみても、自慢とは自分独りにしか得られぬ満足でしか無い。孤独な喜びである。写真の優劣により相手の上に立とうとする価値観よりも、皆で多様な楽しみ方を分かち合うことが楽しみを広げる。「こんな楽しみもあったのか」と言われれば、相手も楽しく自分も楽しい。


多様な価値観が認められる世の中はまだ遠い。趣味を楽しもうとする世の中はまだ遠い。
だが、マジメな人間は恐れている。自分の唯一の価値観が崩れ去るのを。
自分が忠実に守り通した価値観を失えば、今まで必死になって「良い写真」を撮ろうと努力してきたことを否定することになる。
だからこそ、わざわざ出向いて批判メールを出すのだ。
それが、批判メールの目的。




ちなみに、金銭的に身分不相応だという意見もあるが、現在所有しているカメラについてザッと計算すると、総計でおおよそ230万円、多く見て250万円となった。1台当たり9万円となる。
10年間の成果であるから、1ヶ年当たり25万円、1ヶ月当たりでは2万円費やした計算。
(過去に手放した分は費用の回収が発生するのでプラスマイナスゼロと考えた)
現在、手取り23万円/月、ボーナス100万円/年の収入で、自動車など所有せねば不可能ではない。他にも携帯電話やギャンブル、酒、タバコ、パチンコ、コーヒー、昼飯・・・細かい無駄を省くことが肝要。特に昼飯は外食など絶対にせぬことだ。朝食の残り飯をギュッと握り、海苔を巻いてラップに包(くる)んでカバンに放り込む。
他にも、時々入るイラスト描きなどのアルバイトも有効。単価は安くともフィルム代の足しになれば良かろう。
それだけの努力をしているのであるから、妬まれる筋合いなど一切無い。

また、ロモなど流行ものに批判的なのは、長年趣味で写真をやっている我々の世界を歪めるという危機感による。流行の力は非常に大きく、押し寄せた時、そして去った時のダメージはかなり大きい。
他人の価値観を否定する気も無いが、趣味のカメラが息苦しくなってはかなわん。最近では、カメラ付き携帯電話の普及も、一般人のカメラ離れが進みそうで恐い。