2000/04/05
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表紙

1.主旨と説明
2.用語集
3.基本操作法
4.我輩所有機
5.カメラ雑文
6.写真置き場
7.テーマ別写真
8.リンク
9.掲示板
10.アンケート
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12.カタログ Nikon
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カメラ雑文

[194] 2000年12月22日(木)
「誘導」

年末年始の頃によく見るのが「欽ちゃんの仮装大賞」。
審査員も何かに仮装しているのが笑えるが、その審査はいい加減だ。もちろん、お遊びでやっているのであるから、別にそんなことはどうでもいいのだろう。

しかし、予選を勝ち抜いてきた出場者にしてみれば、自分は不合格なのに、隣の者が1点差で合格だったりするのは面白くないだろうと思う。それが特に、「子供だから」という理由だけで1点加算されたとしたら、どうにも納得出来ない。道楽でやっているとはいえ、仕事を犠牲にし、家族にも煙たがられながら一生懸命仮装を作っている。しかしそんなオヤジが作る仮装のアイデアと努力も、子供の笑顔には太刀打ち出来ない。

全般的に、「欽ちゃんの仮装大賞」は子供が出場することが多い。子供が悪いと言っているわけではない。しかし、親が子供をダシに使って点を稼ごうとすることがかなり多い。中には赤ん坊に仮装させて「かわいらしさ」をあからさまに強調させる者さえいる。そういうのに限って内容はお粗末であり、赤ん坊を使う必然性も、仮装であることの意味も希薄であったりする。

ところが、審査員はその「かわいらしさ」に点を与えてしまう。
「あと1点で合格なのに・・・」という場面では、同情票が必ず入る。しかしオヤジに同情票は無い。
単に子供のかわいらしさに点を与えても、喜ぶのはその子供の親だ。子供が自分の意志とアイデアで出場したものならば点を与えることには意味があろうが、子供をダシに使ったものに点をやっても無駄。

・・・話が多少ズレてしまったかも知れないが、要するに何が言いたいのかというと、出場者が「ウチの子供を出せば、プラス5点は堅いね!」などと計算するようになったことだ。
もちろん、全てがそんな仮装ではないにせよ、昔の仮装大賞に比べると、どうもそんな安易なものが多くなったような気がする。

それは、審査員が誘導した結果なのだ。もっとも、仮装大賞の審査員はそんなこと気付いてはいないだろうが。


写真のコンテストではどうか。
コンテストでは、写真を観る眼を持った者が審査する(と思われる)。だから、そういう問題は無さそうな気がする。しかし、どうにも引っかかるのは、その分類の仕方と格付けだ。

普通、「小中学生部門」、「高校生部門」、「社会人部門」に分かれていたりする。そして、それぞれの中で格付けをする。

「小中学生部門の1席と、高校生部門の1席と、社会人部門の1席では、どちらが上なのか」と質問したら、どう答える? 年齢の分だけ、社会人部門のほうが上とでも言うのか?
こんな比較は何の意味もない。

例えば高校生部門では、いかに「高校生らしさ」が現れているかがキーとなるように見える。少なくとも我輩の目にはそう見える。
そうなると、応募者が「クラスメイトなど写せば少しは点が稼げるかも知れない」などと考えても不思議ではない。

我輩の考えでは、「らしさ」という見方は非常に良くない。
写真というのは、老若男女等しく結果を出せる趣味だと思う。それなのに、撮影者によって分類し、それぞれに「らしさ」を求めるということは、審査員の価値観の押し付けに他ならない。

実際にはそう考えていなくとも、現に撮影者の年齢ごとに分けているじゃないか。そして掲載された写真は、いかにも高校生の写真ばかりである。「えっ、この写真、高校生が撮ったの!?」と思えるような意外性などカケラも無い。
高校生ならば、元々そういう写真を撮るのかも知れないが、審査員の誘導も少なからずあると我輩は見る。

コンテストというのは、評価する者がいて初めて成立する。そうなると、その評価によって写真の方向性を決められる者もいるに違いない。
個々の写真のレベルは高いとは思うが、コンテスト全体としては、とても新しいものが生み出されるような気風が感じられない。

専門学校を出てカメラマンになったような(写真しか知らない)人間がお気に召すような写真とは一体何か。応募者がそんなことに腐心するようになったら、写真をやっていることの目的そのものを見失う。

もう、意味の無い分類や作品の格付けなど、やめたらどうだ? 単なる個別評価で十分だろう? 明らかな傑作と駄作を比較するのは簡単だが、1席と2席のような僅差のものに優劣を付けるのは、どう考えてもおふざけが過ぎる。

もっとも応募者のほうが、優劣を付けて評価されないと落ち着かないのかも知れないがな・・・。まあ、写真教室代わりにはちょうどいいか。


話題は変わるが・・・。
雑文の風を切るオイちゃんで紹介した青果物店の話だが、ここ1ヶ月ほど前からハーレーダビッドソンの姿が消えている。

最初は「修理か何かに出しているのだろうか」と思ったが、ハーレーが置いてあった場所に2台の自転車が置いてある。自転車に化けたか?

オイちゃんの表情を見ても、特にいつもと変わりは無い。しかし、顔には出さないだけなのかも知れない。商売人の性(さが)だろう。

エンジンをフカした時のオイちゃんの得意そうな顔を想い出すと、その無念さは耐え難いものであろうと思う。

不況に負けず、ガンバレ、オイちゃん!