2000/04/05
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表紙

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2.用語集
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5.カメラ雑文
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カメラ雑文

[260] 2001年04月25日(水)
「趣味性」

我輩は今まで、コンテンツ制作業務に於いて写真やカメラの技術を利用することはあっても、それを専業とする仕事に就こうと思ったことはあまり無い。
「あまり無い」ということは、少しはあったと言うことだが、ちょっと考えてすぐに諦めている。今思うと、自分の中で趣味性を失わせたくなかったからだろう。

写真だけの話ではなかろうが、趣味と仕事は違うもの。
「仕事」の本質とは、「求められる」ということである。
日本に住む我々は、金さえあれば不自由の無い生活を送れる。住居に住み、食べ物を食べ、電気を使ってテレビを見たりエアコンを付けたり音楽を聴いたりする。
それらの全ては他人が為した仕事の結果である。我々は、金を出してそれらの恩恵を受ける。なぜなら、我々1人1人は家を建てることは出来ない、食べ物を作ることは出来ない、電気を作ることは出来ない、テレビを作ることは出来ない、音楽を作曲することは出来ない・・・。

複雑に発展した現代の社会に於いて、全てのことを1人の人間がまかなうこと、つまり「自給自足」は不可能であり非効率的である。だから、それぞれに担う役割を分担し、それを「仕事」とするのだ。それ故、仕事とは「求められる」ことだと言える。

さて、我輩が写真を専業としなかったのは、「趣味性を失わせたくなかったからだ」と先ほど書いた。もちろん、写真を専業とするには「技術」や「感性」や「熱意」などが必要となるだろうが、そこを考慮する以前に我輩が突き当たった問題が「趣味性」の問題なのだ。

仕事では「求められる」ものを生産しなければならない。そうでなければ対価を支払われない。仕事での評価は、「売れてるカメラマン」か、「売れてないカメラマン」かのどちらかしかない。いかに信念を以て写真を撮ろうとも、売れなければ生活は成り立たない。
売れてないカメラマンが写真を仕事とするためには、気の進まない撮影も受けざるを得ない。その分、自分の撮りたい写真は撮れなくなる。


写真に於ける「趣味性」とは、端的に言えば「独りよがり」と言える。
たとえ、多くの者から共感を得たり、「趣味が高じて・・・」ということがあったとしても、それはあくまで、たまたまそうだったということに過ぎない。

前にも紹介したが、鉄道写真を撮る者の中で、都市部の車両の記録写真を撮る者がいる(参考:雑文015「写真というものは・・・」)。
都市部の車両は、ちょっとしたパーツの違いでいくつもの分類に分けることが出来るという(我輩自身は詳しく知らない)。そのような細かいところを突き詰めて資料写真化しようとすると、どうしても同じ背景や同じアングルで数をこなすことになり、写真的に見ると単調にならざるを得ない。

しかしそのような写真は、誰かに求められている訳ではない。撮影者本人が、自分だけの資料として求めているだけである。故に、それは疑いもなく趣味性の高い写真と言える(後世において貴重な資料として位置付けられることはあるかも知れないが、撮影時点に於いては趣味性以外のものではない)。

我輩も、写真には自分の趣味性を求める。
北九州の平尾台や山口県の秋吉台などのカルスト台地と石灰岩、大分別府の地獄巡り、島根県の鬼の舌振(おにのしたぶるい)などの写真を撮ったことがある。それは、我輩の地質学的興味を引く。しかしそこは観光地であるため、自分自身も観光的な気分になってしまう。そうやって撮った写真は、表面的にはそこそこキレイな写真に写った。

だが、何か物足りない。それは、写真の情報不足と視点の甘さが原因だった。
キレイな光、工夫ある構図・・・。そんなものは我輩が求めているものではなかった。しかし、自分の求めるものに気付かなかった我輩は、しばらくは「キレイな風景写真が自らの欲するものだ」と思い込んでいた。
夕日で紅く染まった山々の美しい姿・・・。だがそれによって見えなくなる情報があるとするならば意味は無い。如何にキレイな写真であろうとも、自分の求める情報の乗っていない写真には趣味的価値を見い出せない(もちろん、必要な情報を盛り込んだうえでキレイな写真というなら言うことなし)。

自然の造形を、十分な情報と視点を込めた写真で表現したい。それを自分自身が鑑賞することによって、表面的には判らない自然の動きを頭の中で再現させる。
それは、砂丘に現れる風紋の形を通して目に見えない風を見るかの如く、地形というものを通して目に見えない自然を見るということだ(参考:雑文037「ネイチャー・フォト」)。我輩が風景写真を撮る動機として、それは一番大きく重要なものである。

そのために、放送大学の「日本の地形」や「固体地球」などの講義をテレビで視聴したり(受講手続きはしてない)、竹内均の地質学・地勢学の著書などを読み、それによって知識を広げるたびに、あらためて自分の写真の中に再発見をしたりする。自然のダイナミズムについての驚きと共に、写真の持つ情報量にも驚くのだ(参考:雑文081「写真の情報量」)。
そういう意味で、我輩が趣味性を以て撮影した写真は、基本的に見飽きることなどあり得ない。そして我輩のそういう写真は他人とは感覚を共有出来ない。それは我輩だけの写真の愉しみである。


一般的に見る美しくキレイな写真は、多くの者の共感を得るだろう。そして、その共感を得ることが、自分の喜びにも繋がる。そういう意味で、インターネット上で自分の写真を公開することは、写真を撮る原動力ともなるに違いない。
だが、本当にそのようなキレイな写真を撮ることが自分の趣味に合うのかを、突き詰めて考えたことがあるだろうか。自分の本当に撮りたいものを撮れているだろうか。

「写真を撮りたい」と最初に思った時、何が自分にそうさせたのか。それは、自分が写真を趣味とするために常に頭に置いていなければならぬこと。
もし自分を偽り、単に共感を生むだけの写真を撮るようになったならば、それはもう「無償の仕事」である。自身を追求することを止めたものに、趣味性はもはや存在しない。

我輩は写真を趣味としている。だから、他人の共感を考慮せず、独りよがりで邁進する。
自分自身を知り、その要求を満たすため、我輩は迷い無くシャッターを押し続ける。