フォークリフトや大型トラックが行き交う工場敷地内の建物の1つ、それが、我輩の働く職場である。単刀直入に言うと、客先の工場内に間借りして事務所を構えているということだ。
社用車は、建物の周囲の道路脇に並べるよう白枠が引かれている。そしてその外側に歩道のラインがある。
出入り業者のトラックやバンなどが来ると、歩道をはさんだ隣に被せて駐車されることもある。他に停める場所が無いのだから仕方無いと言えば仕方無い。だがそうなると、車を出し入れするにも苦労する。
幸いにも、我輩の行動範囲は歩いて10分以内。自社の製作現場である分室、遠隔地へ配送するための郵便室、そして客先の分室。慣れない車を運転するくらいなら、歩いたほうが気が楽である。
ところが先日、いつも車を運転しているY主任殿に運転を頼まれてしまった。客先の分室へ打合せに行くためである。歩いて行ける距離だが、打合せ時間が迫っているため車で送ってくれとのこと。
慣れない車ではあったが無事主任殿を送り届け、事務所に戻ってきてみると、駐車スペースの横に業者のバンが被さって停まっていた。
「困ったな・・・。」
見ると、車一台が通れそうな隙間はあるようだ。そこからバックで入れるか・・・?
今、我輩が直面している状態は、いつもであればかなり深刻であったろう。ここまで前後に狭い状態は今まで経験したことが無い。ここから更に左に寄せるというのは不可能としか思えない。
ここで、「YouTube」で見たビデオの出番である。
あのビデオでは、我輩の場合よりもはるかに狭い場面でありながら確実に左寄せしていた。不可能ではないということを示してくれたのだ。
我輩は、ビデオのように何度も何度も切り返し、前後に小刻みに動かしながら左寄せをした。それはまさに、我輩にとっては"そのまんま平行移動"である。
10回は前後移動したろうか、見ると、もう歩道は踏んでおらず、余裕で駐車スペースの枠内に収まっていた。
我輩は車を降り、改めて全体を見渡した。
「しかしまあ・・・、よくこんな所に入れたもんだな・・・。」
我輩は、ビデオの韓国人ドライバーに感謝した。彼が車の轍(わだち)を示してくれたお陰で、我輩も迷うこと無くその轍を踏むことが出来たのだ。もしその轍が無ければ、きっと我輩は、途中で身動きが取れなくなることを恐れて挑戦出来なかったに違いない。
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カメラ・写真の分野でも、やはり先人による轍があるかどうかは重要である。
自分が実現させたい事柄が、果たして実現の範囲内にあるのかどうか。一般人はそれをまず考える。そうでなければ、努力しようと思う力も湧いてこない。
どんなに時間をかけても、どんなに費用をかけても、どんなに集中力を高めても、結局は不可能なことで無駄な努力に終わるかも知れない。
発明王エジソンも「天才とは、1パーセントの霊感と99パーセントの汗である(Genius is 1 percent inspiration and 99 percent perspiration)」と言っている(参考:
雑文456)。
無駄な努力を恐れずに邁進出来るのが天才なのだ。
一方、我輩のような人間は、先人の残した成功事例という轍が無ければ、努力はなかなか出来ない。
例えば「自作魚眼カメラ(参考:
雑文371)」などは良い例である。
自作のアイディアはもちろん、大体の費用や努力の具合など、事前に参考になる事例を目にして初めて我輩の情熱に火が着いた。
何しろ、このような自作というのは材料費に金がかかる。しかも加工した後に不可能が判明しても、後戻り出来ない(例えば、対角線魚眼レンズのフードを切断したり、接写リングを破壊して部品を取ったり、他に使う機会の無い工具を購入したりした)。
自作中に多少の困難に直面しても、先人の成功事例を知っているのだから、少なくとも不可能だとは思わない。だから、努力を持続することが出来るのである。
また他にも、「Canon AE-1Pのシャッター鳴き修理(参考:
雑文174)」にしても、一般人が分解して調整したという話は知っていた。ただ、具体的な方法が見付からずに苦労したわけだが、Web上での成功事例の存在が、我輩の努力を支えたと言えよう。
「蔵王のお釜撮影(参考:
雑文445)」にしても、湖水の水際まで降りたという幾つかの成功事例を知って、我輩も降りてみようと努力した。具体的なルートや難易度は分からなかったものの、水際まで降りたという事実は変わらないのだ。もしもそんな情報が無かったならば、そんな大胆なことをしたとは思えぬ。
大胆と言えば、「声掛け街頭写真(参考:
雑文173)」もそうか。
声掛け写真という概念すら無かった我輩だったが、やはりWeb上でその撮影スタイルを知り、そして何人も声を掛けていけば誰かが応じてくれると知った。
もしそれを知らなければ、仮に声掛け写真を始めたとしても、数人声を掛けただけで「やはり無理だ」と早々に諦めていただろう。
恐らく他にも、自分の気付かない事例にて、先人たちの轍の存在に勇気付けられていることだろう。
誰かが通った跡があれば、いつか目的地に着くはず。だからこそ、どんなに長い道であろうとも、歩いてゆくことが出来るのだ。